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作戦14・卵の危険性をそれとなく悟らせる。 「……なあ、卵ってアレルギーとかあるから怖いと思わないか?」 俺のさりげない言葉に、視界の端で高宮がきょとんとした瞳でこっちを見るのが写る。 「? 私、アレルギーじゃないし、怖くないよ?」 そう言って箸でつまんだのは、ほどよく焦げ目のついた玉子焼き。ぱくりとほおばる顔は心底幸せそうに緩んでいた。 俺は秋風にのって落ちてくる葉っぱを払って、卵とソーセージの炒め物を口に運ぶ。 「いや……ほら、生の卵って腹に当たりやすいし」 「でもご飯にかけるとおいしいよね」 微妙にずれた答えを返して、高宮は薄焼き卵で包んだオムにぎりをおいしそうに噛みしめる。 「そもそも卵って割れやすいだろ」 「やだなぁ、割れなかったら食べられないよー」 そう言って、ジャガイモ・ニンジン・卵のマヨネーズ和えサラダを嬉しそうに食べるのを横目に見ながら、俺は最後のご飯を租借して飲み込んだ。 「……あー、冷静に考えてだな。その、白いカラの中に、透明な液体と黄色い物体が入ってるんだぞ? だから、……その、変だろ。たぶん」 「うーん、ヒヨコになったらお肉になるって考えると、不思議な気もするかなぁ?」 小さく首をかしげて、高宮は空になったお弁当のフタを閉めた。そしてビニールシートの上に置いてあった小さなタッパーのフタを開けて、輪切りになったゆで卵を箸で――…… 「って、おまえ何で卵ばっかりなんだよ!?」 いい加減ガマンできなくなってつっこむと、高宮は目を丸くして俺を見上げてきた。 「え? あ、なんか昨日、卵が安売りしてたみたい。お母さんが買いすぎちゃって、早く使わなきゃって。なのに、一番好きなアレが入ってなくてがっかりかな」 ああ昨日のタイムサービスか。驚きの1パック60円。ちなみに俺は激闘の末、なんとか2パック手に入れた。夕暮れの戦場はいつだって命がけなんだぞ。 「確かに安売りしてたがな、お前のそれは偏りすぎだっ! たんぱく質しかねぇし!」 「でもおいしいよ、卵のハチミツ漬け」 「しかもデザートなのか!?」 よく見れば、輪切りのそれは満遍なくてかてかと光っている。 ハチミツか? ハチミツなのかあの液体は? その組み合わせはあり得るのか? 「冬芽くんも食べる? おいしいよ」 いやお前、少しはその物体に疑問をもてよ。 悪意じゃなく善意でタッパーを差し出され、俺は言葉につまって目をそらした。 じょじょに色づき始めた葉っぱが、青空をバックにのんびりと揺れているのが見える。 まったくもって、風景だけは平和そのものだ。 「うーん、じゃあ陛下、食べますか?」 決して目を合わせようとしない俺に諦めたのか、高宮はタッパーを下ろして陛下に話かけた。当の陛下は俺達二人の間でじっとしたまま答えない。手足を縮めてうつむいて、いじけて体育座りをしているように見える。 「陛下? ご飯食べないの?」 高宮の言うように、好物のはずのヒマワリの種にも手をつけていなかった。 「……うむ」 「悩み事でもあるんですか? 元気ないですよ?」 のろのろと上げられた陛下の瞳は、どことなく曇っていた。やがて半開きの口から空気漏れのような声が流れる。 「……余のチビが……留守、なのである」 「ちび?」 「余の、愛しのふさふさが……」 ああ、あの件か。 不思議そうに首をかしげる高宮の横で、俺は一人納得する。 チビというのは下部先生のペットのハムスターで、今は動物病院にいる。別に病気になったというわけではなく、先生が言うには「陛下が怖いって目で訴えてきたから、そこの息子さんでもある友達に一時的に預かってもらった」そうで。 ようは陛下の自業自得だ。 俺はため息をついてから、陛下に声をかける。 「陛下もさ、少しは相手の迷惑も考えた方がいいと思うけど」 「む、なにが迷惑だと言うのだ!」 不服そうにぴょいんと跳ね上がる陛下。 「ふさふさしている者を寵愛するのは、とうぜんの行為だぞ!」 反省のはの字も見えない態度に、俺はわざと目を細めて陛下を見下ろした。 「……そんなことばっかり言ってると、下部先生に言いつけマスが?」 「ぬぬ、イカン! しもべに言ったらつけあがる! やめろ!」 声を低めたのが効いたのか、陛下はぴくりと反応して両手をぶんぶん振り回した。 「いや、つけあがるって陛下が悪いんだろ。どう見ても」 「ダメだよ冬芽くん! 陛下をいじめちゃ!」 「そうであるぞ!」 いつものように陛下を手に乗せてかばう高宮に、俺は再びため息をつく。 「あのな……ふさふさしてる方の身にもなってみろよ」 「む……?」 やたらめったら熱い視線を受けたり、ひたすら撫でられたり揉まれたり。 そんなこと四六時中されたら、誰だってストレスが溜まるだろうに。 しかも相手は動く卵だし。動物から見れば、まさに未知の恐怖そのものだ。 「俺だったらつぶすぞ」 つい本音を口にすると、高宮がぎょっとした顔になった。 どうせまた文句を言われるに違いない。俺は弁当を片手にさっさと立ち上がる。 「じゃ、今日はもう行くわ。次の教室、移動だし」 「え? あ……」 そのまま振り返らず、校舎へと足を動かす。 林を出て駐車場に入ったところで、やっと、詰めていた息を吐くことができた。 「……あーダメだ。何気にストレス溜まってるのか、俺?」 空いている手で頭をかいて、何度目かのため息をつく。 どうにも上手く会話を運ぶことができない。作戦14は当然失敗だし。しかも最後の思わず出た本音で、高宮の気持ちがまた陛下に傾いてしまったかもしれない。 まあ、去り際に見た陛下の姿が意外に神妙だったのが、唯一の救いと思うか。 むりやり思考を前向きにして、俺は次の授業のために教室へと向かった。 実際のところ、状況はかなり追いつめられていた。 高宮はあの通り何をやってものほほんとスルーするし、気づけば話題は違う方向へ進んでいるし。……いちいちつっこまずにはいられない俺も悪いのか。 結局この五日間、すべての作戦は玉砕した。 しかも、明日は下部先生の最後の実習日。――つまり陛下が学校に来るのも、明日が最後ということになる。 それがいいのか悪いのかはわからない。でも陛下がいる間に諦めさせなければ、ずるずると想いを引きずる可能性がある。相手に会えないと、余計に恋しくなるものらしいし。 『とらいあんぐるラブ☆レッスン』でも、そのせいで泥沼関係に発展してたしな。 高宮は放課後、友達と予定があると言っていた。 つまり残されたチャンスは明日、土曜日のみ。 どうする。生半可な作戦は通用しないぞ。あとはもう、洗脳とか偽証とか抹殺……いやいや、それはマズイ。落ち着け俺。まずこのイライラした気持ちを抑えろ。そもそもできないだろ。いや、でも……。 ――この苦悶していた悩みが、次の日、劇的な展開を迎えることになるとは。……知っていれば、少なくとも睡眠時間だけはしっかりと取れたはずだ。 「……下部先生、どうしたんだろうなぁ?」 「おー。なんかトラブって遅刻してるらしいぞ」 マメはめずらしいよなーと続けて、自分の机から英語の教科書を取り出す。 朝のホームルームに下部先生の姿がなかった。 初めての事態に、教室ではそれなりの話題になっていた。そしてこんな時、マメの情報能力は最大の力を発揮するのが常だ。 一体どこで仕入れてくるのか、奴の情報は高い確率で正しい。『噂の真意はマメに聞け』……それがこのクラスのモットーになっている。 「トラブルってなんだよ?」 「さあ? そこまでは知らんけど、授業には間に合うって言ってたらしいぜ」 たしかに国語の授業は四限。あと三時間以上もあるし、意外にしっかりしてる下部先生なら最後の授業をすっぽかすなんてことしないだろう。 「あー、うんそうかぁ、……あぐっ!?」 俺は納得してうなずく。が、そのまま首が上がらず、机に額を激しくぶつけてしまった。 「……いてぇ」 「なにやってんだ冬芽。つーか朝っぱらからすさまじく眠そうだよな、お前」 「ほっといてくれ」 新しい作戦が浮かばなくて、昨日は一時間しか寝てないんだよ。 と言う気力もなく、俺はぐったりと机に突っ伏した。そのまま意識が底なし沼のように、ずぶりずぶりと夢の世界へ沈んでいく。 「なんかお前、最近よく寝てるよなー。この余裕人め」 「うっせー……」 かろうじてそれだけを呟いたところで、俺は重い瞼に敗北してしまった。 霧がかかった意識の中で、その声はぼんやりと聞こえた。 「なっ、なんですかコレはっ!?」 あれは……社会の飯島先生、か? 半分以上眠った脳に、次々と先生と同じようにあせった声が届く。 「きゃー! なになになにっ!?」 「うお、あっち行ったぞ!」 「なんの生き物だよアレ! めちゃくちゃ速ぇんだけど!」 そして。 「へ、陛下っ!?」 最近聞き慣れた澄んだ声に、俺は半覚醒状態のまま飛び起きた。 へいか、だと……? 「うぉ! お、起きたか冬芽。なんか今、変な物体が教室に侵入してきて」 すでに立ち上がって興奮ぎみにまくし立ててくるマメ。それに構わず場を見渡すと、混乱した教室の中ですばしっこく動き回る小さな生き物がいた。 卵くらいの大きさ。 背中ではためく赤いマント。 ちょこまか動く、まち針のような手足。 たしかに、陛下に見えた。 「む!」 その物体は、何かに気づいたように短く声をあげる。 「お、おおおい、なんかあの子ザルっぽいのこっちに来るぞ!」 慌てて逃げるマメ。 俺はぼんやりした頭で、その近づいてくる物体を見つめた。 そう、サルっぽい。 寝ぼけた目に写るのは、どう見ても、全身に黒い毛がびっしり生えた陛下っぽい生物。 「!?!?!?」 そこでやっと意識がはっきりした俺は、立ち上がろうとしてイスに足を引っかけて地面に転げ落ちる。ついでに激しい音を立ててイスと机が倒れた気配がした。 「うおお冬芽がショック死した!」 「ヤベェだれか助けろ! マメ心臓マッサージしろ! とにかく胸を押すんだ!」 「でもアレがいて近づけないぞ! そうだ救護班、救護班を呼べ!」 「あんたいつの時代の人間よ!」 もはや混乱の極みに達している教室。それでも防衛本能なのか、俺の席を中心にみんなはやかましい音を立てて遠ざかっていく。 「冬芽くん!」 その中で一人……と一匹、俺に駆け寄ってくる存在がいた。 一人は当然高宮で。その姿に、教室内に別の騒ぎが広がる。混乱の中に混じった浮ついた雰囲気に、俺はぞくりとした危険を感じた。 こっちを見る目の色に、心配以外の楽しげなモノが増幅していく。 ヤバイ。よくわからないけど、これは、ヤバイ。 「うむ。とーがめ、やっと見つけ――」 何か発言しようとした陛下(仮)を素早く鷲づかみにして、俺は勢いよく立ち上がった。その勢いに驚いたのか、教室内は示し合わせたように静かになる。 「全身痛いので保健室に行ってきます」 俺のつとめて冷静に出した言葉は、恥ずかしいくらい教室に響き渡った。 「……それ以前に、その生物はなんだよ?」 ぽつりと、マメの言葉が同様に響く。ついでに皆もコクコクとうなづく。飯島先生は、いまだに口を半開きにして放心していた。少し薄い髪の毛が風になびいて揺れている。 「こ、これは、その、あれだ。見ての通りの」 「見てのとーりの?」 「み、見ての通りの……毛が生えた卵のようでいてそうでないよくわからんけど生きてる希少な生物、というか、う、ぐ、その、あああ! 本当にシャレにならないくらい痛くて死にそうなんで保健室!」 手の中で暴れる陛下(仮)を両手で押さえて、俺はなりふり構わずドアに向かってダッシュした。まるで関わりあいを避けるように、クラスメートは道を開けてくれる。 「いや冬芽、お前どう見ても元気じゃねーか!」 「今の俺の存在が痛いだろっ!」 背後から響くマメの言葉に、俺は走ったままヤケクソで言い返す。 その後、廊下を出て一階に降りるまで追ってくる声は聞こえなかった。よりによって納得されてしまったようだ。 ……今この学校で一番痛んでいるのは、俺の心に違いない。 当然の事ながら保健室に行くこともなく、向かった先はいつもの林の中だった。 「で、聞きたいことは山ほどあるが、まずは説明をどうぞ陛下?」 寝不足。気疲れ。心の痛み。 いろいろな負の感情が渦まきつつも、かろうじて俺は冷静な声を振り絞った。 ここ最近、陛下と高宮のおかげで、表面上は冷静に見せるのに慣れてきた。……なぜかちっとも嬉しくないところが虚しいけれど。 「説明も何も、お主が言ったことではないか」 声もやっぱり陛下そのもの。どうやら正真正銘本物のようだ。 地面に降り立った陛下は、黒々として柔らかい毛を両手でなでつつ、とんでもないことを口にする。 「ふさふさの身になってみろ、と言ったのはとーがであろう。余は反省して実践したのであるぞ? わざわざ見せに来たのだ、光栄に思うがよい!」 「ふさ……? いやちょっと待て」 ふさふさの身? ふさふさの身って……まさか昨日の……。 陛下の言葉に、頭の中で一つの記憶と自分の声が再現される。 『あのな……ふさふさしてる方の身にもなってみろよ』 「い、意味が違ぇえええ!!」 どうすればそういう解釈ができるんだよ! 思わず頭を抱えて叫ぶと、陛下はもじゃもじゃの毛の奥から不思議そうな目をのぞかせて体を傾げた。 「む、どうしたとーが。余の行動力に驚いたのか」 「……」 俺はとほうもない疲労感に、ぐったりとその場に座りこんだ。そんな様子を気にする気配もなく、陛下は満ち足りた声で続ける。 「ふむ、しかしお主の発想も褒めてやらんこともない。自身がふさふさになってしまえば、いつ何時でもふさふさできる。実に画期的である!」 「……」 「余の体内に収集していた秘蔵のふさ毛コレクションも、有効活用ができた!」 「………ふさ毛?」 ご満悦な陛下の言葉に、ふと視線を下ろしてみた。 黒い色の毛。一体どうやって生やしたのか、隙間なく生える毛の中に微妙に違う色が紛れていることに気づく。 それは少し薄いこげ茶色や、白。そして――見慣れた色の茶色。 そういえば、一週間くらい前に毛を抜かれたことが、ある。そう思った瞬間、フッと胸に黒い感情が浮かび上がった。 一回くらいつぶしても、いいよな。うん。やられたらやりかえせって言うし。 体の芯から取れない眠気も手伝って、俺の右手は握り拳をつくって立ち上がった。 ゆっくりと、浮かれて気づかない陛下へと近づく。 「なあ陛下」 「うむ。なんだ」 「陛下は俺や下部先生や、その他もろもろの全生命体の迷惑を、身を持って知ってみたほうがいいと思う」 「む? それはどういう……」 そのまま有無を言わせずに拳を振り下ろそうとした、その時。 「冬芽くん、冬芽くん大丈夫!?」 がさがさと茂みを揺らして、息を乱した高宮が現れた。 「良かったぁ。きっとここにいると思って、来てみたんだけど」 膝に手をついて、それでも笑顔を向けてくる高宮の存在に、俺の拳は脇へと下ろさざるをえなかった。 「あ、ああ。……髪、葉っぱついてるぞ」 「え? わ、わわっ本当だ」 戸惑いながらも立ち上がってそう言うと、高宮はわずかに顔を赤くして乱れた髪にくっついた葉っぱを取る。 「ありがとう、急いでたから気づかなかった。あ、それでね、陛下のことなんだけど。あの生き物は、私と冬芽くんがたまたま見つけたもので、今日中に引き取ってくれる人がいるってことになっちゃったんだけど……大丈夫かな?」 息を整えて、不安そうに見上げてくる姿に、最近は落ち着いていた心臓が激しく動き出す。 「いや、その、まあ、うん。大丈夫、なんじゃないか?」 「うん。冬芽くんがそう言ってくれるなら、大丈夫だよね」 真っ直ぐな視線にくすぐったいような気まずさを感じて、俺はあわてて顔を背けた。 そしてまたあわてて戻す。 「……た、高宮? 今、『俺と一緒に見つけたことに』とか、言わなかったか……?」 「あ、うん」 俺の探るような言葉に、高宮はめずらしく気まずそうな顔をした。 「あの……ちょっと、ごまかしきれなくて。あ、でもね! 一緒にお昼食べてたとかは言ってないよ。その辺は、お腹痛いって言って逃げてきちゃったから」 「そ、そうか」 嫌な予感は消えないが、今はあえて忘れることにする。 まあ、さっさと先に逃げ出した俺に文句を言うような権利はないし。 そういえば、今は何時なんだろうか。社会の飯島先生がいたから、三限の途中であることは間違いないだろうけど。 俺はしゃがみこんで、陛下の毛を無造作に握った。 「陛下、下部先生はどうしたんだ?」 乱暴な扱いに、陛下はじたばたと暴れだす。 「ぬ、抜けるであろうが! 離せ!」 「疑問に答えるのが先。見ての通り、今日の俺、機嫌が悪いから」 「あ、やっぱり?」 なざか嬉しそうに高宮が声をあげる。いつもならすぐに陛下の擁護をするはずなのに、今日は全然そんなそぶりを見せなかった。むしろ、陛下を見ていない。 まさか今日の事件で愛想をつかせたのか!? 喜びのあまり、つい力が入った手から重みが消える。見ると、陛下が転がり、俺の手の中には数本の毛が残されていた。持ち上がった拍子に抜けたらしい。 「うわ、キモっ」 「なっ、貴重な毛になにをする! しかもキモなどと! それは毛であり肝ではないぞ! 余に謝罪せよ!」 「――謝るのは、どっちかな?」 その声は、とても静かなものだった。 「篠宮くん、どんどん抜いていいよ。僕も手伝うから」 静かなのに、言葉では言い表せない威圧感に満ちていた。振り向くと、そこには予想通りの人物がいた……にはいたけれど。 「し、下部先生、その頭……」 「うん。まあ、だいたい予想はつくよね?」 いつもどおりの穏やかな笑顔。きちんと着こなしたグレーのスーツ。 ただ一つ。先生の、あのねこっ毛の柔らかそうな髪だけがキレイさっぱりなくなっていた。 俺は無意識に手の中に残った毛を見下ろす。 ……ってことは、この毛、まさか、よりによって……。 「ねぇ陛下。朝起きた時の僕の気持ち、わかる?」 似合わない刈り上げ頭をなでながら、下部先生は笑顔で一歩一歩こちらに近づいてくる。 その声も、その笑顔も、いつもと変わりがないはずなのに、俺の足は無意識に後ろへと動いた。肌寒い時期なのに、額にはじわりと汗がにじんでくる。 え、笑顔なのに怖ぇ……! さすがの高宮もこのプレッシャーに恐怖を感じたのか、顔を青ざめさせながらそろそろと俺の背後に体を移動させた。 そんな俺達に反応を返すことなく、下部先生は続ける。 「今日は最後の授業だっていうのに、朝から床屋に行かなきゃいけないし。これから迷惑おかけした先生方に、謝罪にいかなくちゃならないし。……ねえ、陛下?」 「う、うむ?」 普段よりもゆっくりとした口調に、陛下も危険を感じとったのか、ずりずりと後退を始める。いつもならすぐに捕まえるはずの下部先生は、なぜか陛下の数歩前で立ち止まった。笑顔のまま、すっと目を細める。瞳の面積が狭まった分だけ、温度が下がった気がした。 「――もうすぐ、定期連絡の時期だよね」 「!」 瞬間冷凍されたように、陛下の動きが固まった。 「今までしたこと、今日やったこと。全部余さず報告するからね。『申し訳ないですが、役に立つどころか迷惑にしかならないので、皇后陛下の再教育を要請します』って」 「……さ、さいきょう、いく……?」 震えた声で呟く陛下に、下部先生はにっこりとうなづく。 「うん。以前の倍は覚悟しようね、陛下」 その言葉に。 本物の卵のように動かなくなってしまった陛下は、突然痙攣を起こしたかのようにカクカク震えだした。 「ヨヨヨ余ハ、民ノタメニ、最善ヲ尽クシ、王トシテノ、義務ヲ、果タスコトニ、至上ノ、喜ビヲ感ジ、ふさふさナドト、モッテノ、ホカ、ホカ、ホカ、ホカ、カカカカカカカカカ」 「な、なななななっ!?」 「せ、先生先生っ、陛下がっ!」 思わず体をひく俺と高宮に、下部先生は慣れたようすでカクカクしている陛下をつかんだ。 「大丈夫。ただの教育の後遺症だよ」 そう言って、ぶちりぶちりと怒りすら感じる手つきで陛下の毛を抜いていく。怖い。 いや、教育っていうか、洗脳にしか見えないんですけど。……と言えるわけがなく、それでも勇気を振り絞って、おそるおそる笑顔の下部先生に声をかける。 「あの、本当に再教育させるんですか? そんな、なんていうか、アレな状態で……」 「ふふ。そうだね、どうしようか。一応、もう一つ選択肢もあるんだけど……そっちの方がキツイかもなぁ。臭いとかあるし」 もうそれ以上聞けなかった。 気になる単語があったけれど、一切考えないことにした。 「あ、そうだ。二人とも、そろそろ教室に戻った方がいいよ。もうすぐ終わりのチャイムが鳴るし、次は僕の最後の授業だから」 「はい、そうします」 思い出したように顔を上げる下部先生に、俺は素直に首を縦に振った。何か言いたげな高宮をうながして、黒い毛が舞い散る場所から足早に去ろうとする。 「そうそう。それと、授業が終わったら、こっそり二人でここに来てくれないかな? 今までのお礼もしたいし」 「わ、わかりました」 「うん。それじゃ、後で」 軽く片手を上げる下部先生を後に、俺達は林から脱出した。抜け出た瞬間、同時にほっと息をついてしまったことは、下部先生には絶対に秘密だ。 その後、教室に戻った俺と高宮はクラスメートからの質問の嵐に浴びるハメになった。予想していた事態に、俺は無言、高宮は笑顔でかわし、その攻撃も刈り上げ頭の下部先生が現れた時点でぴたりと止んだ。やっぱり、かなりショッキングだよな、あれは。 「せんせー! その頭どうしたんですか!」 「ああ。うん、それがね、ちょっとイタズラ好きなペットに切られちゃって。似合わないでしょ?」 「にあいませーん」 「うわぁ、そこで肯定しちゃうかなぁ」 生徒の正直な感想に、下部先生は楽しそうに笑った。その姿はいつもの先生だ。 ……すごいな、下部先生。 その大人の態度にこっそり感心していると、また別の生徒が質問をした。 「で、先生。そのペットはどうしたの?」 「それはもちろん」 下部先生は笑顔を崩さずに続けた。 「ちゃんと躾しなおすよ。しっかりとね」 ……やっぱりすごいな、下部先生。 笑顔の奥に隠れたものにもひっそりと感心してしまった。こりゃもうダメだ陛下。 そのまま授業は支障なく進み、土曜日ということもあって続けてホームルームが始まった。 お約束の色紙と花のプレゼントに、下部先生は少し寂しそうに笑って言った。 「この二週間、とても楽しかったです。ありがとう、みんな」 なぜか担任の方が涙目になっていたのが印象深かったかもしれない。 そして。 ホームルームも終わって、俺は誰かに尋問を再開される前に教室を出る。 もう最後になるだろう道を歩き、すっかり跡になってしまっている茂みをかきわけ、いつもの場所へと辿りついた。 涼しい風に揺れる樹木を眺めていると、やがて高宮がやってくる。 「……今日で最後、なのかな?」 ぽつりと高宮が呟く。 「最後、だろうな」 顔を合わせずに、俺も短く呟いた。 こうしてここで会うことも、お昼ごはんを食べることも、もうない。 そう考えると、少し寂しかった。良いことなんてほとんどなかったのに、こうして寂しさを感じるなんて不思議な感じだ。 「やあ、お待たせ」 お互いに沈黙していると、すぐに目的の人物は現れた。 「まだちょっといろいろあるから時間はあんまりないんだけど、まずはお礼だね」 そう言って、下部先生は手に持った小さな白い包みを差し出す。 「篠宮くん。高宮さん。二人とも、本当にありがとう。とても助かったよ」 思いがけない行動に、俺と高宮は困惑して視線を合わせた。 「ああ。本当に大したものじゃないから、大丈夫。遠慮なく受け取ってくれると、僕の気持ちも救われるんだけど。ほら、迷惑かけっぱなしだったから、ね?」 「それじゃあ、ありがたくいただきます」 言われ、受け取らないのも失礼かと思い、俺はそっと下部先生から包みを受け取った。手のひらと同じくらいの包みは、予想外に重みがあった。ついでに細長くて丸いものが並んでいるような感触がする。……一体何なんだ? 俺が受け取るのを見てから、高宮も包みを受け取った。 「あの、わざわざありがとうございます。私、なにもしてないんですけど……」 「そんなことないよ、すごく助かった。今日もがんばって誤魔化してくれたんだってね? 二人がいてくれて、本当に良かったよ。ありがとう」 真っ直ぐな、それでいて柔らかい瞳で、下部先生は俺と高宮の肩を両手で同時に叩いた。 「これからも、二人で仲良くがんばってね。応援してるから」 「は?」 「え?」 「それじゃ元気で。文化祭とか、また来るから」 思いっきり疑問マークを飛ばしている俺達を残し、意外にあっさりと下部先生は去ってしまった。 「えっと、何をがんばればいいのかな?」 「……さあ」 本気でわかっていない様子の高宮。一方俺は、思いついた可能性に頭痛すら感じていた。 まさか先生、俺達のこと勘違いしてないだろうな? そういえば、ここで初めて下部先生と会った時、偶然高宮と会って……。 その偶然を、日常だと捉えられていたなら。 ……い、いや。まさか、な。俺達はそんな仲が良いわけでないし、それは見てればわかっただろうしな。うん。下部先生はわかってるハズだ。 「あーでも陛下ともお別れかぁ。嬉しいような、がっかりなような、だね。冬芽くん」 俺の困惑をよそに、高宮はのほほんと声をかけてきた。 だからなんでそこで俺に話を振るんだ。口ごもって、ふと気になる言葉を見つける。 「……お前、嬉しいのか? 陛下がいなくなって」 「あ、うん。なんていうのかな、うきうきしたけど我慢するのも大変だったし」 ダメだ、誰か翻訳してくれ。 意味不明な言葉に脱力しそうになりながらも、俺は意を決して顔を上げる。 チャンスはもう今しかない。真意を聞くんだ。ひるむな。命がかかってるんだぞ、俺! 「高宮、お前、陛下のことどう思ってるんだよ?」 「え?」 おそらく俺は必死な顔をしてるんだろう。高宮は戸惑った顔で答えた。 「どう、って……?」 「だから、そのっ、あ、愛してるとか好きだとか、そういう恋愛感情をもっているのかってことだ!」 顔が熱い。逃げ出したくなりながらも、踏みとどまって声を振り絞る。 そして高宮は。 「なんで?」 きょとんと首をかしげた。 「な、なんでって、それはっ……」 お前が真実の愛を知ってくれないと俺が死ぬから。なんて言えるかっ! いやむしろ、このまま会話をしていれば恥ずかしさで死ぬ。間違いなく死ぬ。あと数分で死ぬ。 「え、え、と。あ、あれ? あの冬芽くん?」 高宮はおろおろと視線を泳がせてから、伺うように俺を覗きこんでそっと声を出した。 「へ、陛下っておいしそう……だよね?」 「……………」 口が開いたような気がした。空気が漏れた気もした。ただ、声は出なかった。 俺の様子に、高宮はおろおろ度を増して早口になる。 「え、だ、だって見た目がゆで卵みたいでおいしそうだけど、生きてるから食べられなくて、その我慢する感じがぞくぞくしてステキだねって! あの、冬芽くんも同意してくれた、よね?」 高宮の声が耳を通って、脳へと伝わる。 「だから私てっきり、冬芽くんもゆで卵の丸呑みとか好きなのかなって思って。今日イライラしてるのも、毛が生えちゃって台無しだったから、だよね?」 乾いた大地に水が吸い込まれるように、その声を言葉にして理解して。そして答えが浮かび上がる。 つまり、愛なんてこれっぽっちもなかったわけで。 あったのは食欲のみで。 俺の苦悩の日々は、全部無駄でした。――以上。 理解した瞬間、ぷちっと切れた。 「おっ……お前はアホかぁああああーーー!」 驚いて目を丸くする高宮を気にする余裕もなかった。頭に血がのぼって、目の前が赤く染まってすら見える。 「よりによってそんな理由かっ! っのアホ! アホ! お前アホ決定!」 「あっ、アホってひどいよ! 私アホじゃないよ!」 「しかもなんだよ丸呑みって! お前はヘビかっ!?」 「楽しいんだよ! こう喉を通っていく卵の感触がつるつるーって。で、胃にごろんって転がって」 「喉につまったらどうするんだ、危ないから止めろっ!」 「卵料理の中では一番好きだもん!」 「理由になってない! それにな、ゆで卵っていったら四つに切ってウサギさんの形にするのが一番だろ!」 「それリンゴだよ! 冬芽くんの方がおかしいよ!」 「何だと!? 見たことないくせに否定するなんて最低だぞ!」 「冬芽くんもしてるじゃない! それに作り方もわからないよ、そんなの!」 そんなの呼ばわりに、俺はカッとなってさらに大声で怒鳴った。 「じゃあ作ってきてやる明日見せてやるよ! かわいさに驚け!」 「じゃあ私はゆで卵持ってくるから、冬芽くんも呑んでよ!」 「だからそれは止めろって言ってるだろ! とにかく明日絶対ウサギさん卵見せてやるからな! 覚悟しとけよ!」 お互いにハアハアと息を乱して睨み合う。 「冬芽くんのバカ! 可愛いもの好き!」 「べっ、別に可愛いものが好きなわけじゃないぞ! 俺がバカならお前はアホだ!」 大きな瞳が俺を睨む。はっきり言って、まったく怖くない。 「うぅ〜。冬芽くんの、冬芽くんの……」 もう貶すネタがつきたのか、高宮は言葉をつまらせて視線を地面へと落としていった。 あ、言い過ぎたか……? その姿に、ようやく俺にも冷静さが戻ってくる。 「あ、いや、その」 「ああああ!! もうガマンできないわ!」 つい謝りそうになった俺の前に、唐突に茂みを蹴散らして一人の女子が現れた。 「さっきから見てれば意味のわからない口げんかに発展してるし! アホアホアホアホってあんたの方がアホっていうか、むしろカラス! あほー鳥よ!」 「え、エリちゃん!?」 高宮をかばうように仁王立ちするのは、同じクラスの川村エリだった。高宮はあわてて川村のセーラー服のすそを握る。 「エリちゃん、どうしてここに?」 「尾行したからよ!」 うわ、そんな正直な。しかも何でそんなに自信満々な態度なんだ。 「そしたら噂は本当だったと思わせておいて、変な口げんかしてるし。ちょっと冬の芽! あんたその内容、怒りながら言うもんじゃないでしょうが! やるならもっと優しく!」 「……いや、ふゆのめって俺か?」 気まずいながらも基本的な部分につっこむと、川村はニヤリと笑った。 「あだ名よ、あだ名。ああ、それと私も楽しみにしてるから。ウサギさん卵」 「なっ」 冷静になると非常に恥ずかしいその名前に、思わず顔が熱くなる。 「た、楽しみって、おま、お前っ!?」 「だって明日持って来るんでしょ? いやー最近夏樹ってば一緒にお昼食べてくれないから寂しかったのよね、私」 「あ、ご、ごめんね」 「いいのいいの。明日からもっと楽しくなりそうだし、ね」 意味深の笑みを浮かべ、川村は高宮の腕を取って歩き出した。 「わっ、え、エリちゃん、どこ行くの!?」 「帰るの。お腹すいちゃったし。それとも夏樹ってば、ここでずっと口げんかするの希望?」 高宮はあわてて首をぶんぶんと横に振った。長い髪が激しく揺れる。 それとは対照的な短い髪を片手でかきあげ、川村は俺の顔を見て楽しげに笑った。 「それじゃあ冬の芽、また明日ねー」 そのままスタスタと去っていく二人を、俺はしばし茫然と眺めていた。 ――なんでこう、次から次へと変なのが来るんだ。 取りあえず今の俺に出来るのは、涙を堪えてうなだれることくらいだった。 真実の愛、忘れ去られてやさぐれ中。 |