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始まりの春



 桜が舞う。
 恥ずかしがっているように花びらをピンク色に染めて、静かに、優雅に。
「いい天気だね」
「だな」
 隣りで微笑む光希に、律也は口元を緩ませて同意した。
「桜、キレイ?」
「ああ。薄桃色の花びらが、雪みたいに降ってきてるぞ」
 公園に幻想的な桜吹雪を生み出している一本の桜の木に触れて、律也は答えた。光希も両手を掲げて、そこに落ちてきた花びらを嬉しそうに指でなぞる。その隣りで盲導犬のヒカリが、瞳を輝かせて尻尾を振っていた。

「ねえ」
「ん?」
「明日、初出勤だね。おめでとう」

 振り返ると、穏やかな笑顔の光希がいた。
 ――また、あの出版社に就職を申し込んで。とある作家や編集長の推薦もあって、律也はもう一度やり直すチャンスを手に入れることができた。
「今日お祝いしようね。源さんも呼んで、みんなで」
「や、源さんを呼ぶとうるさいぞ、あれは」
 ニヤニヤ笑ってからかってくる田中の姿を思い出し、律也は嫌そうな声で言葉を返した。
「それに、お祝いって。ガキじゃないんだからな、俺は」
「本気でそう思ってる?」
 からかうような光希の口調に、律也は苦微笑を返す。
 十八の時、二十五歳にもなれば、否応なしに大人になるんだと思っていた。
 ……ところが実際なってみると、どこが変わったんだと思うぐらい自分はガキのままだった。そう簡単に、人は変われるものではないようだ。
「いや、ほんの少し、許容できるようになったかな」
「何を?」
 きょとんとした光希に、笑いを含んだ声で答える。
「ガキな俺自身を」
 それを認めて受け入れて、その先に進むことを覚えた。そうやって、きっと人は成長していく。一歩一歩、ゆっくりと。

 風が吹いた。
 草が、枝が、桜が揺れて、柔らかな音を作り出す。

「唄みたいだね」

 光希が広がる髪を押さえながら言った。
「うた?」
「うん。冬はもう終わったんだよ、雪はとけたんだよって教えてるみたい。すごく優しい音だよね」
 律也は目を閉じてその音に集中する。
 穏やかな海のさざ波のような、柔らかく、優しい……凍てついていた心をとかす、春の音。

「ああ……いい唄だな」

 目を開けた律也の前に、桜の花びらが舞っていった。
 かすかな甘い香りを感じて、彼はやわらかく微笑む。
 その瞳は、春の日差しのように暖かな光に満ちていた。


<FIN>