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冬<2>



 十二月二十三日。光希の家へ行ってから、三週間が経っていた。
 午前の発声練習を終え、田中は大きく息をついて肩を揉む。
「よし、飯でも行くか。おごれ」
 練習が一日中になる時は、気分転換に外食に行くことが恒例になっている。他人との会話や視線に慣れるという目論みもあるのだろう。ただ単に、作るのが面倒くさいだけかもしれないが。
 それでもつきあってもらっているのだからと、律也は以前その代金を持つ事を申し出た。それ以来、もっぱら外食は律也のおごりになっている。
 遠慮をしないところが、実にこの男らしい。
 そして、それが不愉快に感じない程度に、律也は田中のことを苦手ではなくなっていた。
「今日は、牛丼だな」
 相手が立ち上がったのを確認して言った田中の言葉に、しかし律也は首を横に振った。
「いや。……行く、場所、がある」
 田中は律也の真剣な眼差しに何かを感じとったのか、わずかに目を見張り、次の瞬間には意地が悪そうに笑みを浮かべる。
「重要か?」
「とても」
「女、か?」
 小指を立ててニヤニヤ笑われ、律也は返答に困った。女だけれど、別にそういう関係ではない。彼女に抱いている感情は複雑すぎて、律也にもどう判断してよいのかわからなかった。

 助けてもらっていたから、返したい。

 それが一番強い理由かもしれない。
 代わりに、ふと浮かんだ疑問を投げかける。
「源さん。あなたは、なぜ、声を……取りも、どそうと?」
 田中は黄色い歯をむき出して笑いを維持したまま、やや沈黙した。
「約束、したんだよ」
 やがて答えたその目は、笑っているのに、どこか寂しさを含んでいた。
「最後に、もう一度口説いてやるってな。念願叶ったしよ、そりゃもう、毎晩言ってやってるわけだ」
 そう言って、右手の親指で無造作にタンスの上を指差す。そこにはあの、穏やかな老婦人の写真が立ててあった。律也はじっと、その写真を見つめる。
 その表情は、とても幸せそうに微笑んで見えた。
 ちと遅れちまったけどな、と照れたように早口で呟いて、田中は力強く律也の背中を叩いた。
「ま、お前もがんばれや」
「言われ、なくとも」
 律也は真剣な表情で応じる。それを見て田中は大げさに肩をすくめ、おもむろに親指を立てた。
「負けんなよ、青年」
「……ああ」
「男は、押しが肝心だぞ。近ごろの若いもんは、詰めが甘ぇからな」
「しつこい」
 お決まりのニヤリ笑いに律也はようやく笑い返し、同じように親指を立てる。
 そして田中の横を通り抜け、部屋を出て、階段を下り、敷地を歩き、外へと足を踏み出した。
 冷たい空気が全身に襲いかかる。気管孔には夏の二倍の厚さのプロテクターを装着しておいたが、それでも尖ったような冷気が吹き込んでくるのを感じた。息が入道雲のように広がり消えていく。
 空を見上げてみた。やわらかな雲が流れる、青い優しい空。しばらくするとその空に、別の青さが混ざった。光希の家の屋根だった。
「守谷さん!」
 玄関に白いコートを着た春花がいた。白い息を吐きながら手を振って近づいてくる。
「やあ」
 声を出して右手を上げると春花は大きく目を見開いて、それはしだいに笑顔になった。
「えらい、やればできる!」
 その率直な言い方に苦笑していると、春花は律也の肩をぽんと叩いて言う。
「それじゃあ、後はまかせたからね。お姉ちゃんニ階にいるから」
 そのまま立ち去ろうとする春花。

 ……勝手に入っていいのか?

 疑問に思って追おうとすると、彼女はくるりと振り返った。瞳をちょっと怒ったようにつり上げて、びしりと指を突きつけてくる。
「邪魔になったらくやしいから、ちょっと出かけてくるだけ。……言っとくけど、お姉ちゃん泣かせたらぶん殴るから」
 そして地面を踏み潰す勢いで歩いていく春花を、律也は何も言えずに見送った。

 強い子だ。いろんな意味で。

 誰もいなくなってしまったので、律也は遠慮がちに玄関の扉を開けた。他人の家独特の匂いが鼻をかすめていく。
 階段を上がり、すぐ左側の部屋。そのドアは全開になっていた。

「あ、律也、くん?」

 階段のきしむ音が聞こえたのか、部屋の中から光希の声がした。律也が階段を上りきる前に、その部屋から壁に右手をついた光希が現れる。
 律也はあわててその体を支えようとして、――止める。
 必要以上の手助けは、ただの負担になるだけだ。……そう、自分がそうだったように。少なくても彼女の動きは手馴れているように見える。
 だから律也はただ光希の前に立った。
「ごめんね。今お母さんも出かけてるから、お茶とか出せないけど……」
「いや、いい。中で、話そう」
 申し訳なさそうにうつむいていた光希は、律也の声に跳ね上がるように顔を上げた。
「律也くん、声……」
「ああ」
 何がああなのか、律也自身にもわからなかったが、他に言葉が思い浮かばずそう言ってうなづいた。
「そっか……おめでとう。よかったね」
 光希は自分のことのように顔をほころばせて、律也を部屋の中に入れた。クッションをカーペットの床に置いて、本人はベットの脇に座る。少し伸びた髪に、白いセーターと珍しいズボン姿。少し痩せて、全体的に薄い印象を感じさせた。
「どうぞ、座って」
 律也が座ると、光希は笑顔で口を開いた。
「えへへ、すごいでしょ? 自分の部屋の中の物はだいたいわかるんだよ。慣れてるからかな? それにね、手探りなら家の中も一人で歩けるし、ずっと真っ暗ってわけじゃなくて太陽とか見れば光がわかるんだ」
「瀬戸」
「それに絵もね、前にテレビでやってたんだけど、筆圧を強くして描けばそのくぼみでわかるんだって。今練習中。私元々筆圧は強かったし、ちょうどいいかな、なんて」
「瀬戸」
「それに、考え方を変えれば、ずっと夜空が見れるんだってことにならないかな? それに真っ暗なところでも怖くないよね? 見えないんだもの」
「瀬戸」
「だから、私は大丈夫だよ。心配しなくても、ちゃんとやっていけるから。ごめんね、迷惑かけて。でも大丈夫。私は笑えるから――」
「……光希」
 下の名前で呼ばれたことに、光希はぴくりと反応して言葉を止めた。

「もう、いい」

 律也はまっすぐに光希を見つめていた。それが見えていない光希にも視線を感じるのか、おろおろと瞳を泳がせる。
「……あ、ごめん、ね。私の話ばっかりしてたよね。律也くんも話せるようになったんだし、そのお話……」
「違う」
 ぴしゃりと律也は言葉をさえぎった。

 ――伝えよう。ずっと思っていた、心の声を。

「言え。……グチを」
「えっ」
 怯えるように体を縮こませていた光希は、そっと顔を上げた。その瞳は見えないとは思えないほど透明だった。
「もう、我慢、するな」
「がまんなんて……してないよ」
「教えて、くれ」
「私は……平気だよ」
 その笑顔は、蜃気楼のように儚げだった。
 律也はとぎれとぎれのゆっくりした言葉を必死で紡ぐ。見えない溝を埋めるように。幻の思いを現実にするように。
「おまえは、俺の、グチ、聞いてく、れただろ? だから、言え。ためこ、むな。えんりょ……なんて、するな。だって――」

 だって俺達は。

 俺達は――友情だとか、昔馴染みだとか、好きだ嫌いだも関係ない。もっと深くて広い。これは。そう、これの名は――……

「だって、俺達は……戦友、だろ?」

 この不条理な運命と、厳しい現実と、しち面倒な自分の体と闘い続ける、仲間。お互いの苦しみがわかるその絆は、きっと何よりも……強い、と思う。
「……せんゆう」
 初めて聞いた言葉のように、光希はその言葉を繰り返した。そして堪えきれないようにくすくすと楽しげに笑いだす。
「ふふふ、戦友かあ。律也くんらしいや……。うん、本当、変わってな、いっ……」
 笑いながら前かがみになり、そのまま膝を抱えて顔を埋める。笑っていた肩は、小刻みに震え始めた。小さく、何かに耐えるように。

「――――……怖い、よ」

 やがて聞こえた声は、空気に溶けてしまいそうなほど弱々しいものだった。
「……本当は、怖い」
「……ああ」
 零れていく言葉に、律也はただ相づちを打つ。
「ずっと暮らしてた家なのに、うまく歩けなくて、階段を下りるのも怖くて」
「ああ」
「光が見えても大切な人の顔も見えなくて、笑ってくれても音だけで、空もずっと真っ黒なんて……イヤだよ。青い空や夕日がもう一度見たいよ」
「ああ」
「絵が描けても見えないなんてイヤ。ずっと闇の中で生きるのはイヤだよ。怖い。すごくこわ、い」
「ああ」
「……本当はね、あのとき、治さなきゃだめって言ったのは……こうやって見えなくなっても話が、できると思ったから。……私、自分勝手だよね」
「俺も、自分か、ってだ。お互い、さま……だな」
「…………」
「あとは? 全部、言え。吐き出せ」
「……それでも」
 光希は顔を上げた。ほとんど泣き笑いの表情で、揺れる声を振り絞る。

「それでも、こうやってグチを聞いてくれる相手がいる私は、幸せだと……思う」

「……光希」
「ありがっ、と、うっ……」
 そして。
 光希は初めて泣き崩れた。声をあげて。心をさらけだして。

 ……春花にぶん殴られることが決定したな。

 律也はそれでも穏やかな笑みを浮かべて、光希の頭をそっとなでた。

 どんなに辛くても。どんなに苦しくても。
 それでも俺達は生きている。あがき、もがいて――幸せになるために、生きていく。
 これからも、ずっと。
 この命が、闘う力を失うまで。


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