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冬<1>



 発声教室の一角。
 いつも厳しい指導員は、困った顔で返答に詰まっていた。
「……申し訳ないですが、指導員にも、都合というものがありますから。休みの日は、家で基本の復習してもらうしか、ありませんね」
 そう言って、『教室がない日にもご指導頂けないでしょうか』と書かれた律也のメモ帳を差し返す。それでも律也は諦め切れない表情で、真剣に指導員を見つめた。発声教室は一週間に、火・木・土の三日間しかない。それでは足りないのだ。
 指導員は静かに息をつく。メガネを押し上げて、諭すように言葉を続けた。
「正規の仕事をしている人も、いるのですよ。やる気があるのは良いことですが、発声練習は一人でも出来るでしょう。わからなければ次の日に、ここで聞けばよいのです」

 そんなに悠長にやってられない。

 指導員は全員、発声に関してベテランの喉摘者だ。一刻も早く発音できるようになるには、彼らにみっちり指導を受けることが早道だった。
 律也が悔しげに奥歯を噛みしめると、横から意外な言葉が飛んできた。

「なら、俺が、やってやる」

 驚いて律也が横を見やると、薄汚れた紺色のジャンパーを着た田中はニヤリと口の端を上げる。
「お前よりは、うまいぞ。どうだ?」




 光希の家に行ってから、二日が過ぎた。
 季節は十二月。喉頭癌の告知を受けてからもうすぐ一年が経とうとしている。
 あの頃より成長できているのか、律也にはわからない。――いや、もう成長だとか大人の行動なんて、どうでもよかった。
 今はただ、一つの目的のために前へ進む。それが律也の決めた生き方だった。
「ま、上がれ」
 その言葉に、律也はアパートの二階の一室に足を踏み入れた。
 中央に置かれた丸いちゃぶ台の上にビールの空き缶が散乱し、ベランダには洗濯物がよれよれのままかけっぱなしになっている。古びたタンスの上にひっそりと、穏やかな笑顔の老婦人の写真が飾ってあった。その横にはおざなりに線香が置かれている。くたびれた空気がどんよりと部屋の中を漂っているようだった。
 田中に促され、ちゃぶ台の近く、テレビに背を向けた場所に腰を下ろす。
 ――正直なところ、田中が「俺の家でやる」と言い出したときは驚いた。理由は単純に「寒い」ということだったが、この老人が、そう素直に他人を部屋に入れるとは思っていなかったのだ。それも、嫌っているであろう、この自分を。
「さて、やるか」
 空き缶を処分してきた田中がそう言って、律也の正面に座る。律也はどうしても疑問を抑えきれずに口を開いた。
「待て」
 それを田中が問答無用でさえぎる。
「お前、飲み込み法で、話そうと、したな?」
 文書を区切りながら、それでも睨みつける眼差しで問う。律也は戸惑いながらも首を動かし肯定した。
「くせになる。やめろ。これからは、吸引法、だけにしろ」
 一瞬それでいいのか? と思った。……が、確かに発音方法が違うのだから一理ある。それに雑音だらけの飲み込み法は、どうにも自分の「声」として認めたくなかった。
 だからこそ、光希の前でも一度も使わなかったのだ。
 律也はうなづき、しかたなくメモ帳を使って疑問を書きだした。
『どうして、俺に協力してくれるんだ』
 渡され、文字を見た田中がくくっと笑いを漏らす。そうして律也からペンを取り上げて、さらさらと文章を書いていった。
 無造作に投げ渡されたメモ帳には、乱暴な筆跡で長く文章が書かれていた。

『おれは、うじうじうだうだしたバカ野郎は嫌いだが、バカみたいにやる気のある若造は嫌いじゃねぇんだよ。最初は死んだ魚の目みてぇにしてたが、だいぶマシになったじゃねぇか。まあ、からかいがいはなくなったがな。おれの指導は生半可じゃねぇぞ。覚悟はできてんだろうな』

 律也は思わず微苦笑を浮かべた。
 顔を上げて田中の顔を真っ直ぐに見つめ、迷うことなく首を上下させる。その顔には不敵な笑み。

 バカにするな。当然だろ?

 それを見た田中は、しわを押し上げてニヤリと笑った。それは、いつもの小馬鹿にしたものではなく、純粋な喜びのこもった笑い方。
「よし。あがけよ、若造」
 ――そして、特訓は幕を開けた。




 田中の特訓は、熾烈を極めた。
 リズムを取ると音が出る。要領は、口の中に空気を入れるようにする。そのとき顎を引く。そして腹圧をたかめる。
 ……違う、そうじゃない。腹筋を鍛えろ。うまく話そうと思うな。声は出さなくてもいいから、フリをしろ。話すときは、腕を腰にまわせ。自分の声は自分で作れ。まずは「あ」を出せ。それ以外は無視だ。一つできりゃ、あとは全部出る。
 田中に言われたことを、律也は忠実に守った。
 暇があれば腹筋をして、家でも朝夜必ず練習した。親の目なんて気にならない。息切れしようと喉が痛もうとそんなことに構わず、必死で吸引法を繰り返した。

「――。―あ。……!」

 初めて雑音もなく、音でもなく、声としての「あ」が出たとき、律也は嬉しさのあまり泣きそうになった。

 声だ。声が出た。声、が……でた。

 幻の声が、現実になった。たった一言。それだけで胸が一杯になった。
「へっ」
 そんな律也に、田中はただ背中を叩いて答えた。
 吸引法は呼吸も楽で、まるで自然に話しているようだった。それが嬉しくて楽しくて律也は夢中になって練習した。まだ「あ」の音を出すまで時間がかかる。
 最初はムダな空気の出し入れに五十回かかった。
 それが三十二回になった。
 次は二十三回に。
 十一回。
 六回。
 そして……。
「よし。次は、二音節だな」
 田中の言葉に、律也は自信に溢れた表情でうなづく。
 まだ、まだ足りない。伝えるために。もっと「声」を――……。




 匂いがする。
 一階の居間に行ってその事実に気づいた時、律也は驚きで足を止めてしまった。
 コタツの上に並べられた夕食。その肉じゃがの甘い香りが、鮭の照り焼きの香ばしい香りが、ご飯の柔らかい香りが、律也の鼻腔をくすぐり、確かに存在していた。
「どうしたの、律也?」
 母親の心配そうな声に、あわてて我に返り、コタツに入る。右横に座っている父親が不審そうに律也を一瞥した。気にせず、再度匂いを確認してみる。……やはり、する。

 ……確か吸引法をやっていけば、匂いもわかるようになると、発声教室の最初の講義で言っていたな。でも、音が出始めの頃はしなかったのに。まさか、本当に……。

 じわじわと、喜びが体の底から湧いてきた。
 匂いがまた戻ってきたこと。そして、それだけ吸引法が上達しているということに。
「さあ、いただきましょう?」
 母親も席につき食事が始まった。律也は箸を取り、恐る恐る鮭に口をつける。砂糖の甘みと醤油のしょっぱさ、魚の微かな生臭さが口内に広がった。

 味がする。

 肉じゃがのジャガイモも口に入れる。ほっこりとした甘さ。にんじん。あの独特の味と甘み。牛肉。野性味溢れる味に、つゆがよく染みている。
 料理からたつ湯気とは別に、律也の視界が少しぼやけた。普段よりもよく食べるその姿に、母親は嬉しそうに尋ねて来る。
「律也、おいしい?」
 律也は箸を止めて母親を見た。返事は期待してなかったのか、すぐに自分の食事に戻っている。少しやつれた横顔。やつれる必要なんてなかった横顔。
 ちくりと胸が痛む。

 ……何か、できないだろうか。この凍りついた空気を壊すことが。

 一つだけ、思いつく。それはとても単純で簡単な方法。
 それでも律也はためらった。ひどく緊張して鼓動が高鳴る。こっそり深呼吸をして抑えても止まらない。でも、もう物怖じして逃げるのは止めると、決めた。
 息を吸う。
 そっと、静かに、それでも確かに空気を吐き出して――

「うま……いよ」

「……え?」
 声は――出た。母親は信じられないように律也を見る。
「うま、いよ。……めし」
「! りつ、や……」
 声帯を摘出してから、初めて親の前で発した言葉。ちゃんと出せてほっとする。
 母親はこれ以上ないくらいに目を見開いて、そっと瞳を潤ませた。
「っ、そう……よかった……」
 そう言った彼女の顔は、震えて目が赤くなってはいるけれど、今までになく自然に微笑んでいた。どうにもやっぱり気恥ずかしくなって、律也は顔を伏せて食事を再開する。
 その後、食事が終えるまで食卓には会話がなかった。父親の顔も見ていない。……それでも、その空気は多少柔らかくなった気がした。

 いつか、言える日がきっと来る。――『今までゴメン』と。




 部屋に戻って、律也は真っ先に携帯を確認した。
 光希の家から帰る際、律也は光希の妹の春花に携帯のメール番号を教えておいた。それから定期的に春花から、光希の様子についてのメールが届いている。
 今日はまだ来ていない。がっかりした律也は、イスに座って今まで来たメールを順に読み始めた。
『部屋から出てくれたけど、無理して笑ってるっぽい』
『ごはんちょっとだけ食べてた。でも誰かと一緒に食べるのはイヤみたい。手伝ったらごめんね、っていっぱい言われた。言わなくていいのに』
『全然外に出ないよ』
『絵本? ううん全然描いてない。描けないじゃん』
『……そういえば、あんたのこと一言も話題にだしてないよ。たぶん意図的。一回だけ知られたくなかったな、って言ったきり。がんばって隠してたみたいだし。ほら、公園の近くで会ったことあったじゃん? あのとき入院するから荷物運んでたんだけど、すごい真っ青になってたもん。気づいてないよね? って何度も聞かれたし』
『でもね、お姉ちゃん、あんたと会った日はすごく楽しそうにしてた。私よりつらい人がいるのに、落ち込んでなんていられないって。がんばるって』
『だからあんたもがんばってよ。元に戻せるんだから』

 いくつもの言葉と、そこに隠された真実。読むたびに痛みと不甲斐なさで胸が締めつけられる。
 律也はメールを閉じて、目を閉じた。
 闇。
 おそらく今、光希が見ている世界。使い古した机も、天井の木目も、高校の教科書が入ったままの本棚も何も見えない。蛍光灯の光が、瞼を通してうっすら見えるだけだ。
 これが彼女のこれからの世界。
 それはどれだけ、恐ろしいことなんだろうか。

 ぴるるるる ぴるるるる

「!」
 携帯が鳴った。メールとは違う、無機質な着信音。電話だ。
 もはや律也に電話をかけてくる人物は一人しかいなかった。律也は一つの決意をしてボタンを押す。すぐに響く聞き慣れた甲高い声。
 先に息を吸っておく。

《やっほぉ守谷! 最近寒すぎると思わない? 私は心も寒いわ。なんかもう言うなれば監禁? 軟禁? 缶詰? 斉藤は職務怠慢というものを覚えるべきだわっ! なにあの熱心さ! もしかして私に惚れてるの? うわ、ありうるわ! 守村もそう思うわよねっ?》

 息を吐く。あの言葉を、もう一度。

「いいえ」
《は? 何言ってるのよ! 絶対そうに決まってる……って、……。えぇええぇええっ!あ、あんた今? え? 声が、でた、のよね。ちょっと、偽者じゃないでしょうね!》

 その狼狽ぶりに律也は思わず吹き出してしまった。
「ええ」
 しばし沈黙。

《……ちょ、ちょっと斉藤っ! 斉藤! なんでこんな時だけいないのよあいつはっ! とことん使えない奴ね! ああああ、そんなことよりっ、あんたやれば出来るじゃない!もっと早くやんなさいよね! まったく! ノロノロしちゃってもう一年経っちゃうじゃないの! ああでもそうね、これで私も斉藤の弱点をぉおお?》

 語尾が不自然に上がった。何か雑音が入る。律也が不審に思っていると、携帯から彼女のものとは違う渋い低音が響く。

《守谷。声が出るようになったか》

 斉藤だった。

《まったく、これで心配性な作家先生にも集中力が戻りそうだ。暇さえあれば守谷は大丈夫か、話しかければ意欲がわくんじゃないかだの、仕事にならんかったぞ》
《ちょっ! 斉藤! 余計なこと、っていうかでたらめなこと言うんじゃないわよ!》
《……おや。原稿は終わったんですか? ずいぶんと余裕ですね》
《お、おお、終わってるわよ? 当たり前でしょう?》
《なら見せてください》
《うっ、ちょっとパソコンの調子が……》

 こちらにまで漏れて来そうな、大きなため息がくぐもって聞こえた。

《……守谷、早く戻ってこい。胃に穴が開きそうだ……》

 疲れた声に余韻を残して、電話は切れた。
 律也は音を発さなくなった携帯を見つめて、ふっと微笑む。
 どうやら自分はいろんな好意を見逃していたらしい。気がつけば、こんなに幸せな気持ちが味わえたのに。なんてもったいない。
 暖かくなった心を噛みしめながら、メールメニューの新規作成を開く。

 言葉は通じた。もう大丈夫だ。

 カチカチと文章を綴っていく。
 宛先は春花。本文は――『明日、家に行く』


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