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秋<2>



 その夜、律也は勉強机のイスに座って吸引法を練習してみた。指導員に言われたとおりに背筋を伸ばしてあごを引く。左手は腹にあて、右手はひざの上にのせた。静かに気管孔から息を吸い、腹を膨らませる。腹式呼吸。そのまま気管孔から空気を抜き、口を開けた。一気に口から空気を吸い込み肺に入れて腹の力で追い出し――。
 空気が抜ける。
 音は出ない。
 律也はがっくりとうなだれた。雑音も出ないが肝心の音が出なければ意味がない。
 両手を机の上に置いて、気を紛らわすようにやりかけの校正原稿をぱらぱらとめくってみる。こうしているとなんだか高校受験の頃を思い出した。

 あの頃はクソ真面目に「こんな勉強なんて将来の役には立たない。無意味だ」なんて反抗しながら、半泣きで徹夜勉強してたよな……。

 苦笑して、脳裏にぽんと昼間の少女を思い浮かんだ。いや、忘れようとしていたのに失敗したというところか。原稿用紙の上に、あの時の情景が鮮やかに再生される。

『〜〜っ、困るの!』

 あの時のヤケにも聞こえる怒鳴り声。
 困る。こちらの声が出なくて、何が困るというのか。
 それともそれは……瀬戸に関係することなのだろうか。

『私は……律也くんの声が、聞きたい』

 震える光希の声がよみがえる。いつも笑っていた彼女が、初めて露出させた弱々しい感情。それは律也の心に不穏な波風をつくった。

 あれは、ただ俺の不甲斐なさを批判していただけではない、という可能性もあるのか……?

 ぴるるるる ぴるるるる

 疑問に意識を支配されていた律也は、着信音にびくりと体を震わせた。またか、と思いながら布団の横に放置してある携帯を取り上げてボタンを押す。

《よし今日は早いわ偉いわよ守谷! それにしても斉藤の奴、ついに私の買い物にまで文句言いだしたのよ! 無意味に衝動買いするなって、あんたは私の夫かっての! ちょっと欲しい服買ったら食料が買えなくなっただけじゃない! 私生活まで口出しするなって感じよね! 守谷もそう思うでしょ?》

 竜巻のように凄まじい勢いで流れていく言葉の渦。律也はいつものように聞き流そうと思ったが、その目に何かを思いついた光が生まれた。
 口を開け、空気を飲み込む。
 言ってみた。「いいえ」と。

《……え? なに今の雑音? あんた電話に息でも吹きかけたの気持ち悪い。もしもしゃべったってんならハッキリ言いなさいよ! わかんないじゃない! もう一度! ……ってやばいわ斉藤が帰ってき……ああもう何でもないわよ! 弟に嫌味なとある人物についてグチってただけ! 切ればいいんでしょう、切れば!》

 ブツ、と電話が切れた。
 外から鈴虫の澄んだ鳴き声が聞こえてくる。

 ……やはり、飲み込み法では無理か。

 律也は携帯を机の上に置いて、もう一度吸引法をやるべく背筋を伸ばした。
 何も事情はわからない。
 それでも、話せないと困ることがあるのは事実だ。やれるだけのことはやってみよう。そうすれば、あの少女に話も聞けるかもしれない。瀬戸も笑ってくれるかもしれない。
 悪循環を断ち切る糸が、少しだけ見つかった気がした。




 それでもそうそう上手くいく訳もなく、まったく吸引法で音が出ないまま約二週間後の十一月二十九日、律也は二十六歳の誕生日を迎えた。
「今日はごちそう作るからね」
 そう言ってためらいがちに笑う母親に気まずさを感じて、律也は目的地もなく外へ出た。朝の肌寒さの中、すっかり黄金色に変わったイチョウ並木を歩き、もはや習性のように桜通りにある例の公園へ足が動く。落ち葉を踏む感触が一歩ごとに伝わって、カサカサと音を立てた。

 どうせ、いないのはわかっているのにな。

 それでも足が止まらない。寒さで首をすくめながら、黒いコートのポケットに手をつっこんだ。冷えると喉が痛むため、プロテクターも厚めにしてある。
 ぼんやりと歩いていると、脳裏に光希との思い出が次々によみがえっていった。冷静に考えると、喉頭癌になってから律也とまともに会話を交わしていたのは、彼女だけだった。他の人間が書き途中で言葉を遮ったり、矢継ぎ早に話しかける中、光希だけは律也が書き終わるのをじっと待って、その速度に合わせて話をしていてくれた気がする。

 それはもしかしなくとも、スゴイことなのではないだろうか?
 それとも、ただ彼女がゆったりした性格をしているだけ、なのか――……

 信号を渡って、律也は足を止めた。
 公園のいつも二人で座っていたベンチ。そこにあの少女が一人、座っている。こちらに背を向けてはいるが、ほんの少し見える横顔は、間違いなくあの強気な少女だった。
 学校指定のコートと思われる紺色のコートを着て、まるで何かを待っているように微動だにしない。ぎゅっと握ってひざの上に置かれている両手は、よく見ると震えていることがわかった。
 周りの気温を凌駕する張り詰めた空気を、彼女はまとっていた。
 近づいてはいけないのかもしれない。それでも律也は足を前に進めた。
 少女に対する疑問。そして他のベンチではなく、そのベンチに座っていることが、まるで律也には意図的にしか思えなかった。何かある。直感的にそう感じる。
 砂利の混じった地面を踏みしめて一歩一歩近づいていく。
 その足音に気づいたのか、少女は目だけを動かした。律也の姿を瞳に映し、次の瞬間には弾けるように立ち上がってがむしゃらに駆けてくる。

「来て!」

 律也のコートを握りしめ、声をあげる。それはほとんど叫びだった。ツリ目の瞳が赤く腫れて痛々しい。とりあえず落ち着かせようと、律也が少女の肩に手を置こうとしたとき、新たな叫びが生まれた。

「お姉ちゃんを助けて!」

 律也の脳内が一瞬真っ白に塗りつぶされる。
 お姉ちゃん。
 それが誰か、すぐにわかった。
 必死でコートを引っ張る少女に一つうなづき、律也は連れられるまま走った。流れていく景色に構いもしないで、ひたすら、ただひたすら走り続けた。




「お姉ちゃん、部屋に閉じこもって、出てきてくれないの……」
 青い屋根の家の前に着いて、少女は乱れた息を整えて言った。病院で会った時の勇ましさは微塵もなく、悲しげに瞳を伏せている。
「私たちじゃダメみたい。くやしいけど。それで、お姉ちゃんの気持ちがわかるの、あなたしか思いつかなくて……」
 律也は喉の痛みをこらえて少女に目で訴えた。何があった、と。
 少女は瞳を潤ませて告げる。
「……お姉ちゃん、もう……目が見えないの」
 寒空の下、律也は凍りついたかのように硬直した。

 ――いま、なんていった?

 少女は自分のことのように苦しげに顔を歪めて続ける。
「五年くらい前から、ずっと目、悪くて。治療とか手術とかいっぱいしてるのに、再発して。……あなたと病院で会ったときね、お姉ちゃん、手術するから入院してたんだ。でも、でも、失敗してっ……!」
 少女の瞳から涙がこぼれる。
「もう、悪くなるしかないって、どんどんどんどん見えなくなっていくだけだ、って言われてっ……! それでも笑ってたのにっ、今日、部屋から出てきてくれなくてっ」
息切れしたのだろう。少女は言葉を切ると、肩で息をして涙をぬぐった。そのままうつむいて力なく囁く。
「お願い……お姉ちゃんを、助けて」
 招き入れられ階段を上りながら、律也は放心状態になっていた。頭の中を少女の言葉がぐるぐると回って、うまく事態が理解できない。

 ……だってあいつ……笑ってたぞ?

 ようやくそんな言葉が浮かぶ。
 いつだって、不幸なんか知らないような笑顔で。昔と変わらない笑顔で。

 ……あれは、作り笑いだったのか? 「嘘じゃなくて笑う」ことができていなかったのは、お前の方だったのかよ、瀬戸?

「お姉ちゃん」
 少女の声に律也はわれに返る。少女は階段の左側にあるドアを叩いて話しかけた。
「お姉ちゃん、いつも話してくれてた律也くんが来てくれたよ」
 ガタン、と中から音がした。
 少女に場所を譲られ、律也はとりあえずドアを叩いてみる。
 一回、二回。 

 ……瀬戸、返事をしろ。

 三回、四回。

 瀬戸。中にいるんだろ?

 五回。六回。

 ――――瀬戸っ!

「――――……律也、くん?」
 小さく。憔悴したような声がドアの向こう側から響いた。律也はあわてて同意の代わりに軽く一回ドアを叩く。
 しばらく沈黙があって、光希の声がか細く流れてきた。
「……ごめんね。私、律也くんに偉そうなこと言えなかったね……。もう、律也くんの声、見えなくなっちゃったよ。……グチ、聞けないや。……ごめん、ね」
 泣き声の類は一つも聞こえない。それでも律也にはその声がひどく痛く胸に響いた。否定をするときはどうすればいいのだろうと、顔を歪めながらドアに額を押しつける。

 ……グチなんて聞かなくていいんだよ。おまえだって重いもん、持ってたんじゃないか。それをずっと抱えて、俺のガキみたいな文句を聞き続けていてくれたんだろ。……よく見えない状態で。必死でメモ帳の文字を見つめながら。

 律也は自己嫌悪で押しつぶされそうになる。
 何も変わっていないと思っていた光希の方が、自分よりよっぽど大人だった。
「……律也くんと話ができて、すごく楽しかった。……律也くんががんばってるから、私もがんばれたんだよ。……ありがとう」
 今もこうやって、自分のことより他人のことを考えて。
「でももう……空が、ぜんぜん見えない、よっ……」
 耐え続けて、でた本音はひどく小さくて。
「……ごめん。ごめん、ね。私は、大丈夫だから。だから……もう少しだけ、一人にさせて。――そうしたら、また笑うから。嘘じゃなくて、笑うから。……だから、今だけは……私を、見ないで。……お願い。――ごめんね、律也くん。ごめんね、春花 (はるか)」
「お姉ちゃん……」
 春花と呼ばれた少女が涙を滲ませて呟く。
 律也はじっとして動かない。いっそこのドアを叩き壊したいと思っていた。

 ――俺は、バカだ。

 息ができないほどの後悔が襲う。
 何てバカだったんだろうと。自分はどれだけ愚かだったのかと。己の弱さ汚さ傲慢さを引きずり出して引き裂いてズタズタにしてやりたかった。
 何も知ろうとしなかった。何も気づこうとしなかった。何も見ようとはしなかった。そのくせ、自分の病気を知らない人間を無知と罵り、気がつかない人間を無関心だと憤り、見ない人間を無理解だと否定した。

 ――そう、俺は不幸な自分の世界に陶酔して浸っていたんだ。

『癌だ何だと理由をつけて甘えるのもいい加減にしろ』

 父親の声。その通りだった。

『ガキだな』

 田中の声。ああまったくその通りだ。

『その先の生き方はその人次第なんですよ』

 そして東海林医師の声。
 律也は、ゆっくりと顔を上げた。
 自分の病のことは隠して、周囲をいたわって、そして笑っていた光希。

『そして、辛ければ吐き出せる場所をつくることです』

 ……まだ、間に合うはずだ。

 律也の瞳に、強い決意の光が宿る。
 誰かに背を押されたわけでも、プライドのためでもなく、自分自身で決めた単純で純粋な決心。

 声を――取り戻す。絶対に。

 悪循環を断ち切る糸は、この瞬間刃へと変わった。


→第四章 1