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秋<1>



『なんであんたは障害者だってことを隠そうとしないんだ?』

 まだ暑さを残す、九月の上旬。
 律也は発声教室が終わるのを見計らい、田中にメモ帳を見せた。相変わらずよれよれシャツでプロテクターが丸見えの姿の田中は、その珍しい行為に眉をへの字に吊り上げてじろりと律也を見上げる。
 ――皮肉なことに、あの夏の日、父親に殴られたことがきっかけで律也は呑み込み法をほぼマスターした。しかし、食道に空気を送るときグーグーグチャグチャと雑音が鳴るのが不愉快で、練習の時以外は使わないようにしている。今は吸引法にランクアップしているのだが、これが想像以上の難しさで、まったく音すらでない。
 だからいまだに律也の伝達手段はメモ帳だった。
 なに言ってんだコイツ、とでも言いたげな眼差しに負けず、律也はシャーペンを添えてメモ帳を差し出す。この老人の態度が厚顔無恥によるものなのか、どうしても知りたかった。
 田中は馬鹿にするように鼻で笑うと、メモ帳をつかんで乱暴に文字を書き込んでいく。やがて印籠のように見せつけられたメモ帳には、汚い文字が並んでいた。

『その方が周りが罪悪感で気ぃつかってくれていいんだよ』

 ……は?

 固まる律也。田中はいつものニヤニヤ笑いを浮かべて、もう一度文字を書く。
『弱者には優しい日本の教育さまさまよ。どいつもこいつもノドの穴みりゃごていねいにつくしてくれる。ま、お前さんみたいな引け目感じて卑屈になってるやつにはわからんな。うじうじしてみっともねぇ』
 引け目。卑屈。
 晒された文章に律也は内心ドキリとしながらも、平静を装った。田中からメモ帳を奪い、筆圧強く書きつける。
『それはただの開き直りだ。あんたみたいに皮の面が厚い奴は多くない』
 田中は喉で笑い、口を開いた。
「ガキだな」
 小さく、濁っているが雑音のない声でそう言うと、背を向けて帰っていく。
 一人部屋に残った律也は無言で唇を噛んだ。「ガキ」、その言葉だけは、けして間違っていないと思った。反論なんて浮かばない。
 誰もいない教室に、どこからか楽しげな笑いが流れ込んでくる。その声が、とても遠く感じられた。




 帰り道、車道を隔てた場所から公園を眺めることが律也の習慣になっていた。
 最後に会った日以来、光希とはまったく会っていない。発音教室の帰りに、待ち合わせたように公園を歩いている光希の姿を見ることもなくなってしまった。

 呆れられたか……。まあ、当然だな。

 まだ紅葉していない木々に囲まれた公園を眺め、律也は自嘲する。かろうじて発声教室には出ているが、彼の雰囲気には諦めが混じっていた。熱心さの欠如は他の無声者との差を生み出していき、その悔しさとやるせなさがやる気を削いでいく。完璧な悪循環を止める術が、律也にはもう何もなかった。
 立ち去ろうとして――止まる。
 律也の視線の先、公園のすぐ脇の通りを五百メートル程進んだ信号のところに、大きな荷物を持っている光希が立っていた。彼女の横には若い女の子がいて、手をつないで何かしきりに話している。
 信号が青になった。
 二人は話しながらまっすぐに――律也のいる方向に歩いてくる。道路を隔てているとはいえ、このままでは確実に彼女の視界に入るはずだ。……なのに、光希は何の反応もしないで通りすぎていった。
 律也はただ茫然とその姿を目で追った。首が動き、無意識に体を反転させていた。光希と手をつないでいる女の子がその様子に気づいたように視線を向ける。
 その子が光希に何事かを囁く。光希はちらりと視線を向けて、足を止めた。
 律也はとっさの判断ができず、固まったままそれを見ていた。
 その間を車が一台、また一台と走り抜け、ようやく光希は気づいたように目を見開いた。そして――急かすように女の子の腕を引き、足早に去っていく。

 避けられた。

 そう理解するには充分な行動だった。
 予想していたことなのに、律也はひどく衝撃を受けていた。自業自得。そんな言葉が思い浮かんで苦笑する。その笑顔がひどく歪んでいたことには、まったく気づかず。

 わめいて、暴れて、弱音を吐いて。好意を無視して自分のことしか考えない。……俺は一体、いつになったら「大人」になれるんだろうな。

 体中にすきま風が開いたような寒さを感じ、律也は静かにその場から去った。




 後退もせず、前進もしない日々が続く。
 木々の葉もちらほらと紅葉して、すっかり涼しくなってきた。
 家では父親との完全な冷戦状態。母親は最近ひどく老けたようで、白髪が増えた髪を週ごとに染めている。家の中は早い冬眠についたように静かだった。
 吸引法もまったく進歩がない。指導員には「本人のやる気がなければ、声は一生出ることはない」と諌められた。
 そして、光希とは会っていない。信二達とも音沙汰なしだ。
 そんな状態で、律也は定期診断のために一時間半かけて総合病院へ出かけた。
「再発はしていませんでしたよ。体の方は順調ですね」
 東海林医師が穏やかな笑顔で告げる。なんだか皮肉にしか聞こえず、律也もつられてぎこちなく笑った。

 ……それ以外に順調なことは何一つないんですよ、先生。

「食事はしっかりと取っていますか? あまり顔色が良くないですよ。健康管理も、再発予防の大切な義務ですからね」
 適当に相づちを打ち、東海林医師の言葉を受け流す。その後数分間健康がどうたらという話をしていた医師は、最後にこう締めくくった。
「医者がこう言ってはなんですが、病は気からです。突然の病に塞ぎこむことは人として当然ですが、その先の生き方はその人次第なんですよ。それを忘れないでください。そして、辛ければ吐き出せる場所をつくることです。物でも、趣味でも、人でも」
 ふと公園と光希の姿がうかんだ。
 ……自分で壊しておいて今さらだと、心の中で首を振る。
「どんなに苦しくても、あなたは生きているのですから」
 東海林医師の瞳は、悲しみといたわりが融合した、どこか不思議な色をしていた。
 それは、数え切れない程の死を見てきた者の色なのかもしれない。医者の悲哀を、律也は初めて感じ取ったような気がした。
 頭を下げ、診察室を出る。
 肌寒い廊下を抜け、待合室を通り過ぎた。長イスがいくつも並んでいるそのフロアは騒がしい。不安な顔、楽観的な顔、苦痛に満ちた顔、パジャマ姿で点滴を引きずっている人。ごちゃごちゃな人間の集まりなのに、どこかそこには陰鬱な空気が満ちていて、律也はよそ見をしないで玄関に急いだ。
 自動ドアを通って外へ出ると、体に絡まっていた不快な空気が消し飛んでいくように感じる。ほっとして空を見上げた。秋晴れと言っていいほど青い爽やかな空。絹の帯のような雲が、いくつもゆったりと浮かんでいる。

「あっ」

 しばらく雲が流れるのを見ていると、ふいに声が耳に入る。顔を下ろすと、前に光希と手をつないでいた女の子が目を丸くして、入り口の塀の側に立っていた。深緑色の制服に身を包み、茶色のカバンを持っている。どうやら高校生だったらしい。
 彼女はまっすぐに律也を見ていた。強気な瞳で意を決したように律也に近づいてくる。やがて数歩前まで来ると、ポニーテールの髪を凛々しく揺らして顔を上げた。
「あの、守村律也さん、よね?」
 律也は目を見張った。だが少女は気にせず言葉を続ける。
「ここに何をしに来たの?」
 見上げてくるツリ目の瞳に律也はとまどった。
 自分のことを知っているのは、おそらくあの時光希から聞いているからだろう。しかしこちらはこの少女のことを知らない。……なぜこんなに警戒した態度で問いただしてくるのだろうか?
 困りながらも、律也は素直に己の喉をとんとんと叩きながら指差した。
「……のど?」
 少女はきょとんと呟いて首をかしげると、納得したようにうなづいた。
「そう、……。のどの治療ってこと?」
 律也がうなづいてみせると、なぜかため息をついて瞳を伏せる。
「そりゃそうだよね。うん、わかった」

 こっちはわからない。

 律也は理不尽さを感じてメモ帳を取り出そうとした。その前に、少女は目を上げてさらに口を開く。
「ねえ、声はまだ出るようになってないわけ?」
 冷水を浴びせられたようだった。
 さっと顔を強張らせる律也の態度に理解したのか、目線を強くして腰に手をあてる。
「もう、もっとがんばんなさいよ男のくせに! 早く話せるようになってくれないと」
 少女はぴたりと言葉を止めた。躊躇するように視線をさまよわせてから、ムキになったように腕を振り下ろす。
「〜〜っ、困るの!」
 そう言い捨てるとダッシュで律也の脇を通り抜けて病院中へ入っていく。一瞬呆気に取られた律也は、しかしすぐにその後を追った。
 だがそうとう足が速いらしく、すでにその姿は待合室の混雑に紛れて見えなくなっていた。人に聞こうにも、皆自分のことだけでいっぱいいっぱいのようで、誰も他のものに目もくれていない。
 律也は息をついた。中へ入ったということは、お見舞いか何かに来たのだろう。いくらなんでもそういった場所に、ただ問いただすために行くのは気が進まなかった。

 あの子、瀬戸の何なんだ?

 家族か、親戚の子か、近所の子か、はたまた年の離れた友達か……。
 それでも律也には一つだけわかったことがあった。それは――自分が話せるようにならないと困るらしいということ。
 律也は混乱しながら家路についた。


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