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夏<2>



 ――何がわかる。

 律也は渦巻く怒りを制御できずに、舗装された道路を歩いていた。夜とはいえ、熱せられたアスファルトから熱気がかげろうのようにたちあがってくる。だが律也は怒りに支配されていて暑さも気にならない。倒れたコップのせいで右腕がビールで濡れていたが、そのぬめりのような感触を、勢いよく振って地面に叩き落とす。
 悔しかった。
 こっちの苦労も知らないで不自由もなく笑う、彼らの姿が。
 自分の『言葉』が否定され、無視されることが。
 声が出ない、ことが。

 ――大したことない、だなんて何も知らないくせに言うなっ!

 信二の軽い口調を聞いた瞬間、しこりは破裂寸前まで膨れ上がった。殴りかかろうとした拳を、しかしぎりぎりの良心でテーブルに向けたことは、賞賛に値すると思う。

 あいつらは何も知らないんだ。

 そう言い聞かせながら、ただひたすらに家路をたどる。
 ふとわれに返ったときには、すっかり家は目の前だった。一度気を落ち着けてから、玄関のドアを開ける。
「おかえりなさい、律也」
 夕食が終ったのか、母親は玄関の脇にある台所で皿を洗っていた。律也に気づくと、すぐに笑みを作って話しかけてくる。
「楽しかった? ひさしぶりに会ったんでしょう?」
 律也はただ母に視線をやった。なぜかびくりと震えられ、やっと睨みつけていたことに気づく。そうとう凶悪な顔になっていたのであろう。母親はおろおろと洗い物の皿に視線を戻して言葉を続けた。
「汗かいたでしょう。早くシャワー浴びてきちゃいなさい」
 なぜだか、ただそれだけの言葉が気にさわった。律也にとって風呂は死と隣り合わせのものだ。気管孔に水が入っただけで命にかかわる。だから肩より上につかることなんて怖くてできないし、シャワーも慎重にならざるを得ない。早く、なんてできっこない。なのに。

 ダメだ。顔を洗って落ち着こう。

 律也は溢れそうになる怒りを抑えるため、何もリアクションせずに玄関を上がった。居間にいる父親の姿が目に入る。彼は律也を一瞥すらしないで、枝豆をつまみに下着姿でテレビを見ていた。律也は大して関心を払わずに洗面所へと向かう。

「――いい身分だな」

 すれ違う直前、その低い声が聞こえた。律也はぴくりと反応して立ち止まる。
 父は冷たい視線を律也に向けていた。
「口が利けるようになる練習もしないで遊びまわってるのか。そんなに酒の臭いをぷんぷんさせて、癌だ何だと理由をつけて甘えるのもいい加減にしろ」

  何を。
 言って。
 ただ一つだけわかったことは。
 ――自分には酒の臭いがわからないこと、だけ、で。

 ぶつり、と。律也の中で感情を押さえ続けてきた要が、切れた。

 喉の奥から声なき声を張り上げ、父親の襟首をつかみ握り締める。その顔めがけて拳をぶつけようとした。が。それより速く左頬に鈍痛が走り、背中が壁に打ちつけられる。
「親にむかってその態度はなんだあっ!」
 激高する父親の姿。口の中に唾液とは違う液体が広がった。構わない。壁に反動をつけてその顔面に一発当てる。
「っがぁ! 〜〜っふざけるなあぁああ!!」
ごりっとした手ごたえを感じると同時に、今度は腹に相手の拳がめりこんだ。
「――っあ――!」
 再び壁にぶつかった衝撃で、初めて律也から『声』としての音が口から漏れる。
「律也っ! やめてくださいお父さんっ!」
 驚きで律也の動きが止まった間をぬって、母親が父親に飛びついた。
「離せ! この馬鹿者にっ、このっ!」
 頭に血がのぼった父親を睨みつけ、律也は心の中であらん限り叫んだ。

 あんたに、あんたあんたにあんたにっ! あんたに一体何がわかるんだ! 声が出ない苦痛がわかるか? 匂いのわからない辛さがわかるか? 風呂すら怖い悔しさがわかるか? 鎖骨の間にあり得ない穴を空けられて、痰は止まらない風が痛い常に息苦しく咳き込む、そんな状況に突然置かれる人間の気持ちがわかるのかっ!?
 なあ、俺が、何をしたんだ? どうして俺なんだ? どうして街中で笑いながらタバコをすぱすぱ吸ってる連中がならなくて、俺が喉頭癌になるんだよ? どうして俺が偏見の目で見られなくちゃいけないんだよ? あんたそんな偉そうなこと言うなら教えてくれるんだろ? ……外食に行くのも、誰かと話をするのも、人と会うのも、だんだん怖くなっていくんだよ。だけど偏見の目で見られるんだ。道を聞かれても何も言えないんだ。意志の疎通もぎくしゃくするし、必死で声を取り戻そうとしても甘えてるって言われるんだよ! なあ早く教えてくれよ。怖いんだ。このまま生きていくことが。だから、早く、早く、教えてくれ。教えて、くれよ頼むから――……。

「お前みたいな奴が、社会に適応していけると思うなっ! わかってるのか!」
「お父さんお願いっ! やめて、やめてっ……!」

 咳を切ったように溢れる本音は、しかし誰にも聞こえなかった。律也は微かにうなだれ自嘲すると、もつれあう両親を置いて静かにその場を離れる。

「待て律也! 聞いているのか! この大馬鹿者がっ!」
「お父さん落ち着いてください! そんなひどいこと言わないで!」

 怒鳴り声を背に、律也は階段を上った。部屋に入り、ひきっぱなしの布団に力尽きたようにあおむけに倒れこむ。
 今さらのように左頬と腹部がひどく痛んだ。口の中でわずかに鉄の味がする。殴られた拍子に歯で口内を切ってしまったようだ。けれど、そんなこと律也にとっては、もうどうでもよかった。

 ぴるるるる ぴるるるる

 唐突に携帯が鳴った。闇の中、律也のポケットから着信音と青緑の光が点滅し続ける。律也は動かない。しばらく無機質で単調な着信音と両親の言い争う声が響いた。いつまでたっても鳴り止まない着信音に、律也はのろのろと腕を伸ばしてポケットから携帯を抜き取る。一緒にメモ帳がこぼれ落ちるのを感じながら、電源を切ろうと指を動かした。
 ところが押し間違えたのか、手の中の小さな機械から甲高い声が噴き出す。

《守谷? ちょっと、あんた反応が遅いわよっ! 私には時間がないの。あと三日で長編一本仕上げるなんて無理! ホント無理! 斉藤、限界に挑戦しすぎ! あれはむしろ限界を挑発してるわ。今ちょうど買い出し頼んだからいなくなったんだけど、斉藤の弱点何かないかしら? 弱みでも苦手な食べ物でもこのさいなんでもいいわ! このままじゃあ私はあいつのねちねちとした嫌味に……って、うわ斉藤! あんたいつの間にっていうか、音もなく背後に立たないでよ! え? な、なに言ってるのよ。あなたのことじゃないわよ。その、ちょっと父にお見合い相手の不満をぶちまけていただけ、ちょ、ちょっと、やめっ、返しなさ……!》

 ブツ。

 糸が切れるように、電話は途切れた。
 律也は階下のいさかいを聞きながら、ゆっくりと携帯を顔の前まで持ち上げる。液晶画面を見る目線は、どこか遠かった。天井の木目をバックにメールを開き、カチカチと文字を打つ。

『あなたも苦しんでください』

 指を止め、律也は静かに――削除ボタンを、押した。




 朝、目が覚めて。気づけば律也はいつもの公園に来ていた。
 空がどんよりと薄暗い時から、東からじょじょに青い色を帯びながら明るくなっていき、世界がまぶしい光に包まれても。じっとベンチに座って見るともなしにその光景を眺めていた。
 じりじりと空気が太陽に焦がされていく。

「……律也、くん?」

 背後から聞こえる、暑さにかき消されそうな小さな声。律也が顔だけ振り向くと、土管やターザンロープのさらに奥、竹組みの柵を隔てた道路に光希が立っていた。午前中に会ったのは最初の時以来だ。驚いた様子ながらも、小走りで柵を迂回して入り口から入ってくる。
 その表情は、律也に手が届くところまで来ると驚愕に変わった。
「ど、どうしたのその顔っ!」
 律也の赤く腫れ上がった左頬に手を伸ばし、触れる直前になってあわてて引く。
「…………律也くん?」
 いつまで経っても反応のない律也に、光希は怪訝そうな顔で首をかしげた。
「……あの、とにかくほっぺ冷やしたほうがいいよ。私、ハンカチ濡らしてくるね」
 光希は素早くきびすを返して、ニ分割された向こう側の水飲み場へ駆けて行く。白いスカートが入道雲のように大きくはためいていった。それを希薄な視線で見送った律也は、メモ帳を取り出し、一度紙の上でためらってから文字を書き始める。
 すぐに光希は帰ってきた。
「はぁはぁ……今日も暑いね。はい、これ使って。……え?」
 差し出されたハンカチ。しかし律也はそれを受け取らず、ただメモ帳を光希に差し出した。受け取って、凝視していた光希の顔が、強張る。

『どうして俺が障害者にならなきゃいけなかったんだ』

「りつや、くん……」
 震える声。律也は視線を感じながらも、力なく地面の土に視線を落としていた。
「……だって。それは、それは……。……私、にもわからない、よ……。でも、なったものは、取り戻せないんだもの。だから、諦めないで」
 かすかに律也の首が横に振られる。もう疲れた、と、その姿が言っている。
 光希は大きくかぶりを振った。
「でも! でも律也くんの声は取り戻せるじゃない! いろいろ辛いことがあっても、がんばれば目も見えて、耳も聞こえて、声もでるようになるじゃない! それなのに、ここで止まっちゃダメだよ……。辛いなら、いくらでもグチ聞くから……」
 律也は動かない。それは一つの拒絶だった。
「律也くん……」
 悲しげな声で呟くと、光希はそっとメモ帳を律也の横に置いた。
「自暴自棄になって逃げるのは、卑怯だよ。そうやって全てを否定しても、何も、何も変わらないもの。……ずるいよ。治るのに、ずるい。私は……」
 光希は声を詰まらせ、一歩後ずさった。

「私は……律也くんの声が、聞きたい。聞こえなくなるのは、イヤだか、らっ……!」

 じゃりっ、っと音がして。光希の姿が遠ざかっていった。
 律也はゆっくりと顔を上げる。光希の姿はかげろうに隔てられ、幻のように揺らめいていた。
 静かに。ただ静かに律也は拳を握りしめる。

 ――その後、夏の間ずっと、律也は光希と話すことはなかった。


→第三章 1