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夏<1>



「君のそのあせりが、かえって声を出なくしている。原音が出るのに一年かかった人もいるんだ。まずは地道に何度も繰り返すことが大切。さあ、もう一度」

 指導員の言葉に律也は空気を強引に飲み込み、腹に力を入れる。空気が食道を逆流していくのがわかったが、そのまま喉から出ていってしまう。音は出ない。悔しさに奥歯を噛みしめた。
 《ほととぎす》の発声教室に通いだしてから約二ヶ月。最初は生徒も指導員も老人ばかりという状況に腰が引けていたが、じょじょにそんな余裕もなくなってきた。食道発声は「呑み込み法」「注入法」「吸引法」と発展していくのだが、律也はすでに最初の呑み込み法で苦戦していた。十回に一回は出るのだが、なかなか安定しない。

「喉で出そうとしても駄目だ。食道に空気をためて吐き出す。もっとしっかり吸ってみなさい」

 指導員は厳しい顔で助言する。律也が一番指導を受けるこの初老の男性は、甘えを許さず容赦なく欠点を指摘してくるタイプだった。広くなった額と四角いメガネが蛍光灯の光を反射して、にぶく輝く。
 この初級コースの生徒数は十二人。障害者センター三階の実習室でテーブルを挟み、六人の指導員が手分けして解説や訓練補助をしている。ゆえに生徒が二人一組になることが多いのだが、律也はそれが非常に不愉快だった。
「田中さん、笑ってないであなたもです」
 指導員の注意で、律也を見てニヤニヤと笑っていた田中が正面に視線を戻す。そのまま盛大に空気を吸い、吐いた。つぶれた蛙のようなげぇ〜という音がその口から響く。
「いいですね。その調子」
 言われ、田中は顔のしわを押し上げてニヤリと笑った。黄ばんだ歯がむき出しになる。ま、ざっとこんなもんよ。そう言っているような自慢げな視線を向けられ、律也はテーブルの下で両手を握りしめてムカっ腹を抑えた。

 なぜか妙につっかかってくるのだ、このご老体は。

 初日に一緒に組んだとき、差し出された紙に書かれていたのは「おまえ、その若さでタバコすいまくったのか。ばかだな」だった。誤解は解いたがそれ以来、事あるごとにちょっかいをかけてくる。
 律也は田中に陰険な視線を一瞬向けてから、大きく空気を噛み付くように呑み込んだ。痛いくらいに腹に力を込めて吐き出す。
 出ない。
「守谷さん、ムキになったら余計出なくなることを、忘れてはいけない。ゆっくり、落ち着いて、しっかりと。それが三原則。いいですね」
 横からの視線を感じながら、律也は消沈してうなづいた。
 その後、訓練を終えて帰ろうとしている律也に、田中が近づいてきた。白い市販のプロテクターを隠そうともしない黒いよれよれシャツ姿で、例のごとくメモ帳の切れ端を渡してくる。読みにくい崩れた文字で短く一言。
『今日もおれの勝ちだな』
 メモ帳を握りつぶして睨むと、田中は実に楽しそうに笑いながら去っていった。
 田中源、六十四歳。彼は律也の天敵兼ライバルである。




「う〜ん。でもちょっと会ってみたいな、田中さん。楽しそう」
 光希はそう言ってくすくす笑った。風と共に生まれる木漏れ日が青いパステルカラーのワンピースに小さな太陽を作りだす。
『楽しくない。あきらかに俺をガキだと思ってバカにしていやがる。俺は今いじめにあってるんだ』
 そう書きこんで光希に渡し、ベンチの脇に置いておいたぬるいアクエリアスを飲む。困ったことに、冷たすぎる飲み物だと喉が膜がはったようになって苦しくなるのだ。もっとも指導員に相談したところ、心配しなくても慣れていくと言われてはいるが、それとこれとは話が別だと律也は思う。今現在の不快感はどうにもならない。
 木陰のベンチに座った二人の前を、半袖半ズボンの子ども達が暑さにも負けずに遊びまわっていた。律也の視界を、汗を光らせた子どもを乗せたターザンロープが風のように流れていく。
 ――光希とは、こうして時々公園で会うようになったいた。校正の作業のために図書館に行った時や、発声教室の帰りのとき。だいたい一週間に一、二回くらいか。最初はたわいもない話をしているだけだったが、いつの間にか律也のグチを光希が聞くようになりつつある。
「でも、ライバルがいた方が上達しやすいと思うけどな。だって声、出るようになってきてるんでしょう?」
 律也はあまり嬉しくなさそうにうなづいた。
 声と言ってもしょせん蛙のつぶれた声だし、空気を飲み込む時くーくーと妙な音が出てしまう。聞いたところ呑み込み法だと、どうしても呑み込むときに雑音が出てしまうそうだ。吸引法ならそれもなくなるらしいが、そこまで行くには今のレベルをクリアすることが必須だった。
 
   じれったい。現在の状況に地団太を踏みたくなる。

「それなら大丈夫。少しでも出るなら、いつか絶対普通にしゃべれるようになるよ、うん。本当に良かったね、元に戻りそうで」
 嬉しそうに笑う光希に、ほんの少し苛立ちを感じた。そうやって普通に話せる瀬戸には、このつらさはわからない。そんなやつあたりに似た感情を押し殺し、笑ってみせる。
『瀬戸の方はどうなんだよ?』
 話をそらすためにメモ帳を返してもらい、書いて見せた。
「えっ、な、なにが?」
 光希は虚をつかれたのか、ぎょっとした顔で律也を見る。
『ほら、絵本。売れてんのか?』
「……あ、ああ。うん、え〜と、ぼちぼち、かな? 新作がね、なかなか描けなくて……ちょっと困り中」
 言葉とは別にほっとしたような笑みを浮かべる光希を、律也は不審に感じた。
『どうした?』
「う、ううん。いきなり話が飛んだから、びっくりしただけだよ」
 首を振って取り繕う様子に疑問を隠せなかったが、律也はその点について追求しようとはしなかった。誰だって隠したいことはあるだろう。それにこの居心地の良い場に、嫌な空気を持ち出したくはなかった。
 律也はわかったという風にうなづいてみせる。光希も少しだけすまなそうに笑って、何事もなかったように空を見上げた。
「……空ってさ、物心ついたときからずっと見てるのに全然飽きないよね。いろんな顔があって、同じ青でも一緒の色は一つもないんだよ。私、空って大好きだな」
 どこまでも広がる青い眩しい空。大きな雲が、存在感をもって雄大に流れていく。
「ずっと、空は見れるんだよね」
 二人は木々の間から見える空を、何も言わずに見上げていた。




 それから数日経った発声教室の帰り。汗だくになりながら、今日も田中爺に負けた悔しさを胸に家に帰ると、母親が困った顔で出迎えた。
「ねぇ律也。西村信二っていう人から電話がかかってきたんだけれど……」
 律也は軽く目を見開く。高校のとき親しかった友人の名前だ。
「律也のね、家の電話が通じないから心配になってこっちにかけてきたって言ったから、その……事情を話したのよ」
 冷たい釘で後頭部を一気に打たれたような衝撃を感じた。

 教えた? 癌のことも何もかも全部か?

 勝手な行動に怒りが足元から沸きあがるようだった。目つきの鋭くなった律也の様子に母親は激しくうろたえ、怯えの混じった表情でそれでも続ける。
「ご、ごめんなさいね。でも、本当に心配しているみたいだったから……。それで、お話したら、それじゃあ今日伺ってもいいですか、って。飲みのお誘いをしたかったみたいでね、今日の七時頃に来てくれるんですって」
 必死で笑顔を保とうとしている母親。それを律也は意識的に無視した。何か言いたげなそれの横を通り抜け、荒々しく階段を上り部屋のドアを閉める。

   七時、つまりあと三時間後に、嫌でも信二に会わなくてはいけない。

  腹に入るだけ息を吸い込み、吐き出す。やり方が違うので、当然音は出ない。
 失念していた。信二とは、夏休みに他の高校の友人も含めて飲みに行くことがあったのだ。律也は不定期な仕事のため、連絡方法は家の留守電が基本だった。おそらく、いつもと同じように電話をしようとしたのだろう。……向こうの家はすでに引き払い済みなことも知らずに。
 静かな部屋の中で律也はしばらくそのまま立ちつくしていた。怒りがゆっくりと消えていき、不安が心を蝕んでいく。
こんな、姿で。こんな状況で、できることなら会いたくなかった。だからといってそれを伝える手段もない。お互い家の番号しか教えてないからメールはできないし、追い返すにしても顔を会わせなければならない。さすがに母親を使うわけにもいかなかった。
 意味もなく部屋の中を歩き回り、額に手をあて、……律也は決意したように洋服ダンスを開けた。汗臭い服を黙々と脱ぎ始める。
 どちらにせよ、むこうは全て承知してしまっているのだ。今さら隠しても仕方ない。ひょっとしたら光希のように、変わらない態度で接してくれるかもしれないという期待も僅かながら律也にはあった。
 汗と痰で汚れたプロテクターを取り替えて、プロテクターが見えないようにグレーのロメットカバーという布を着用する。その上から半袖ワイシャツを着れば、ぱっと見ただのTシャツにしか見えないすぐれものだ。律也にとって、偏見の目で見られないようにする必須アイテムだった。外に出るときは例え服で見えなくとも、必ずこれをつけている。
 着替えを終え、律也は気恥ずかしさと不安、わずかな期待とともに三時間を過ごした。

 ピンポーン

 空がやや薄暗くなった頃、チャイムが鳴る。来た。
 心臓がひときわ高く鳴り、高ぶる気持ちを落ち着かせながら部屋を出て玄関を開ける。チェックのシャツを着た、昔と同じラフな格好の信二がそこにいた。
「……よっ、律也」
 信二が緊張した面持ちで片手を上げる。
「おひさ。なんか老けたな」
 律也は困惑の混じった曖昧な笑みを浮かべ、同じように片手を軽く上げた。本来ならここで軽口の一つでも言っているのだが、ぽっかり穴でも空いたような沈黙が玄関をただよう。セミの鳴き声だけがうるさく響いた。

   気まずい。

 それを信二も悟ったか、取り直すような明るい顔で律也の肩を叩く。
「ま、それはおいといて。飲みに行こうぜ! 拓海も陽太もいるし、お前も気晴らしが必要だろ。場所はいつもの居酒屋だし、気、使わなくていいからな」
 どうやら行くことが確定しているようだ。律也は微妙な気詰まりを感じながらも、その笑顔に断わることもできず、信二と並んで歩いた。
 黄昏色に染まりだす空の下、信二は気を使うように言葉を並べていく。
「しっかしお前も大変なことになったなぁ。なんかやつれてるぞ? メシとかまともに食ってんのか? ……あ。メシ、ちゃんと食えるんだよな?」
 律也は疑問に答えるために、ズボンのポケットからメモ帳を出して空きページを開いた。歩きながらは安定しないなと思いながら付属のシャーペンを持つと、信二はあわててそれをさえぎる。
「お、わっ、いいって! いちいち書くの面倒だろ。うなづいたり首振ったり……あとはジェスチャーか? そういうのやってくれれば充分だからな!」
 驚き、律也はまじまじと信二の顔を見つめてしまった。信二は昔と変わらない人懐っこい笑顔で、言葉を続ける。
「俺達の前で無理はすんなよ。水臭いからな」

 ……無理? ただ会話することが無理になるのか?

 違和感がしこりになって腹に残る。それでも律也は表情には出さずに、ただ汗をぬぐって返事をごまかした。信二は親切心で言っているのだろう。いちいちつっかかるのは大人気ない。
 それから居酒屋に着くまで、律也は一文字も書くことができなかった。まるで発言権を剥奪されたような気分になりながら、店に入る。

「おー、信二! 律也! こっちだこっち!」
「遅いぞー。オレらは仕事のあと直行したのによー」

 奥から馴染みの声がした。赤みの強い照明の中、大きく振られる手が二つ。人を避けながらたどり着くと、四人用の座敷にスーツ姿の拓海と陽太が座っていた。すでにテーブルの上には酒やら焼き鳥やらが並んでいる。
「わりぃわりぃ。でもそんな遅れてないぞ、お前らが早すぎ。おら陽太ビールよこせ!」
「うおっ何しやがる!」
「おう律也、お前も座れよ。何か飲むか?」
 変わらない彼らの行動に笑いながら律也は座に腰を下ろした。ビールを奪われぶつぶつ言っていた陽太が、気を取り直したように振り向く。
「律也、お前焼き鳥食え、焼き鳥! ……って、食って大丈夫だよな? 喉につまったりしないよな」
 こくりとうなづくと同時に焼き鳥がずずいっと差し出される。
「おー良かった! よーし、どんどん食え。酒も飲め。今日は嫌なこと全部忘れろよー!オレも忘れる。残業なんて嫌いだー!」
「陽太、お前もう酔ってんのか。おい律也、酒なんて飲んで平気なのか? 他にも食えないものとかあるんじゃないか?」
 律也がメモ帳を机の上に置いたとたん、また信二の止めが入った。
「おいおい、だから書かなくっていいって言ってんだろ」
「何を言ってるんだ信二。律也は書かなきゃ意思疎通できないだろ」
 拓海の言葉に、律也はここにいる全員が自分の声のことを知っていると確信した。きっと信二が電話で根回しをしておいたのだろう。
「あーそっか。まったく声でないんだもんなー。本気で大変じゃねぇか律也。ガンっていつからなんだよ。声でないんじゃ仕事ヤバくないか?」
「陽太。そう根掘り葉掘り聞くもんじゃないだろ」
 諌める拓海に、陽太は酔いで顔を赤くしながら反論する。
「いやでも気になるし。まったく声でないんだろ。この律也がだぜ? いつもだったら皮肉や軽口の三つはでてるだろ? なーんか、調子狂うんだよな」
 注文した酒を口に含みながら信二もうなづく。
「確か、こーとーガンってのだろ? よくわかんないけど。……でもさ律也、今の医療技術も進歩してるんだし、そういう声のでない奴が使う機械とかあるんじゃないか?」
 ――確かにある。でも律也はそんな人工のものではなく、自分の肉声を取り戻したかった。機械を使いながらの会話は、確実に偏見の目で見られるだろうから。……そして、彼らのように手記でしか会話できないと思われたくもない。その一心で食道発声を会得しようとしている。
 必死に。それこそ藁をもつかむ思いで。

 ……何も知らないくせに。

 律也は大きくなっていくしこりに耐えながら、メモ帳に言葉を綴った。
『俺は食道発声を』
「なんだよ食道発声って」
 書き途中で陽太が口をはさむ。覗き込む息が、律也の首にかかった。
「ようは声がでるのか?」
「え、なんだそうなのか? なんだよ水臭い。一言もしゃべらないから、もう一生話せないのかと思ってたぞ!?」
 信二も便乗する。律也は首を縦にも横にも振れなかった。シャーペンの芯がぼきりとはじけ飛ぶ。
 拓海がため息をつく音がテーブルの向こうから聞こえた。
「律也、こいつらは無視していい。とりあえず食えよ」
「いやオレは律也の声が聞きたいね。なあ律也、その食道発声とかいうの、披露してくれよ。どうやるんだ?」
「俺も聞きたいぞ」
『声は』
「二人とも、いいかげんにしろ」
「んだよ拓也。オレは律也のこと心配してるんだぜ?」
「そうそう。でも良かったじゃないか、律也。声でるんなら大したことなかった・・・・・・・・・・――」

 ダンッ!!

 コップと焼き鳥が飛び上がって悲鳴をあげる。
「…………り、りつや?」
 呆然とした信二をよそに、テーブルを殴りつけた律也は立ち上がった。メモ帳をつかみ、もう三人には目もくれずに外へと向かう。
「なんだよ、あいつ。せっかくオレらが親切に……」
 陽太の唖然とした声が、居酒屋の喧騒の中へまぎれていった。


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