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春の終わり<3>



 覗き込むように小首をかしげている女性の顔が、律也の顔を見てみるみる驚きに変わっていく。
「わ、わわわわっ! やっぱり律也くんだし!」
 女性はひたすら驚いた様子で顔を紅潮させ、両手を持っていた手さげ袋ごとわたわたと動かした。
「わ、わ、わ、待って待って! 落ち着いて冷静にいこう! 冷静冷静!」

 いや、そっちが落ち着け。

 凍り付いていた律也の思考が、その女性のあわてすぎな様子に動き出す。白いカーディガンを羽織り、肩にかかる程度の黒い髪が落ち着かない様子で揺れている。驚きで見開かれているが、そのたれ目がちな顔にはどこか見覚えがあった。
 律也が記憶をたぐっている間、女性は大げさなほど深呼吸を繰り返して一息つく。どうやら多少は落ち着いたようだ。
「……はあ、びっくりした。えっと、あの、律也くんだよね? 実はお兄さんとか弟さんとかいうことは、ない……ですよね?」
 だんだん自信がなさそうに首をかしげ、小さくなっていく声に、とりあえず律也はうなづいた。そもそも律也は一人っ子だ。
 女性はほっとした様子で笑う。
「よかったぁ。ごめんね、騒がしくて。実は生き別れの双子の兄弟の線もあると思ったからドキドキしちゃった」

 ……このどこかズレている言動。覚えている、確か彼女は……。

「あ、私のこと覚えてる? 瀬戸光希 (せと みつき)。おんなじ高校だったよね」
 そうだ、瀬戸だ。高校の時、同じ図書委員になって話をするようになって、マイナーな小説やマンガの話などでよく盛り上がった。自分から男子に話しかけることはほとんどなかったが、話かければ返してくれたし、言動が変で面白い。ひそかにクラス内では「おもしろ天然」として有名だった人物だ。
 突然のクラスメイトとの再会に、律也はどう反応していいかわからなかった。このままでは確実に気まずい空気が流れる。かといって、癌のことを教えるのは別の意味で気まずかった。とまどいながらも仕方なく、忘れていないという意味を込めてもう一度うなづく。
「うわ嬉しいなぁ。えーと、七年ぶり、だよね。まさかこんなところで高校のクラスメイトと会えるなんて思わなかったなあ」
 光希は一歩土管に近づいて、眩しそうに目を細めた。
「んー、ここあったかくて眩しいねぇ。律也くん光合成でもしてたの?」

 なんでそうなる。

 律也はもどかしくなって顔をしかめた。彼女は昔からつっこまれるのを前提としたような言動をする。そしてそれが素だから「天然」と呼ばれるのだ。
 だが今のはアレだ、つまらん。律也がそう思うのと同時に、光希は笑いながら手を振った。
「あはは、ウソウソ冗談。ここは昔みたいにつっこんでくれないとダメだよ。……というか、もしかして朝寝とかしてた? ジャマしちゃったかな、ごめんね」
 少し大人びた顔に、昔と同じほんわかした笑みを浮かべてぺこりと頭を下げる。どうやらずっとしゃべらない律也を寝ぼけていると思っているようだ。このまま何もしなければ、彼女は気を使って立ち去ってくれるだろう。
 けれど律也はジーパンのポケットからシャーペン付のメモ帳を取り出し、ページをめくった。途中で《ほととぎす》の場所と開催時間をメモしたページが目に入りなんとも言えない嫌な気分になるが、今は無視。さらにページをめくり白紙の部分に文字を書きこんでいく。
「律也くん?」
 突然の律也の行動に光希は不思議そうな顔をしていたが、黙って待っていた。
 なぜこんなことをしているのか律也にもよくわからなかった。ただ、昔と変わっていない光希を試したかったのかもしれない。この自分の身に起こったことを知って、どういうふるまいをするのかを。
 ちょいちょいと人差し指を使って光希を呼び寄せると、書き終えたメモ帳を渡す。

『アホかお前は。こんな不安定な格好で寝れるわけないだろっ! つーか俺、喉頭ガンになって声帯とられたから会話できないだけ。以上』

   高校の時と同じ口調。書いていて、少しだけ昔に戻った気がした。
 メモ帳を受け取って至近距離でじっと見つめる光希。その視線が静かに左右に動くのを見ながら、律也は首の後ろが汗ばむのを感じた。不安と期待。それがごっちゃになって心臓が激しく動悸する。
 やがて読み終えた光希はさっきの出会いのシーンと同じように目を見開いた。

「なんとっ!」

 それだけ言うと、律也の方を見る暇もなく手提げ袋をあさりだす。すぐに律也のものより分厚くてかわいらしいメモ帳を取り出すと、一心不乱になにやら書き始めた。今度は律也がきょとんとする番だ。
 しばらく「うーん」だとか「あ」だとか呟きながら書いたりぐちゃぐちゃとペンを動かしていた光希は、恥ずかしそうに顔を上げてメモ帳を律也に差し出した。なぜか力強くペンを持っている右手をぐっ、っと握って見せる。いわゆるガッツポーズ。さらにわけがわからなくなった律也は、光希のメモ帳に視線を落とした。

『ごめん! 知らなかったとはいえ勝手にべらべらしゃべって! でもこれで大丈夫だよね? あ、手話ってできる? できるのならそっちの方がいいのかな? それにしても律也くんの言葉、音声付で聞こえてきたよー。変わらないね。あと私、立ったまま寝たことあるよ。中学の部活帰りのとき電車の中で。私の勝ちだね!』

 クセのあるやや丸字の文字は、落ち着きなくあっちこっちに揺れていた。途中『そういえばあけましておめでとう!』やら『じゃあプーさん(無職)なの?』やらの文章がぐちゃぐちゃした線で消されている。
 二度、読み終えて。ふつふつと律也の体から湧き上がるものがあった。

 こいつ、こいつは本当に――……。

「……な、なんか違ったかな……って、痛っ!」
 反応のない律也に不安になった光希は、ぼそりと小声でつぶやいた。その彼女の頭を律也は軽くチョップする。高校の時、暴走する彼女を止める最終手段だった行動。そのまま再度背中の土管によりかかって、ずるずると地面に滑り落ちる。くつくつと笑いがこみ上げた。体をくの字にして律也は全身を震わせて笑う。止まらなかった。
 光希は憮然とした顔で律也の方のメモ帳に書きこみ、笑い続ける律也にむりやり見せて渡す。
『なんでそこで笑うかなー?』
 震える体をそのままに、律也も光希のメモ帳に書いて返す。
『お前、本気でアホなんだな。つか意味わからん。お前まで黙る必要ないし』
 ぶるぶると震えた律也の文字を読んで、光希はやや顔を赤くして言った。
「だ、だって対等な条件の方が話しやすいと思って」
 その言葉を聞きながら、律也は今度は自分のメモ帳に文字を書きこんだ。
『むしろやりにくいっての。あと俺は手話はつかえないぞ。そして勝負はその寝かたは人として負けだな』
 渡せば、交換とばかりに光希のメモ帳が渡される。
 しばしの沈黙。
「うっ。そんなことないよ。立って寝れるなんて画期的じゃない」
『お前はいくつだ? 本当に二十五か? 実は精神年齢止まってんじゃないか?』
 また交換。
「む、失礼な! 自分に正直に生きてるだけです。それに高校時代の友達に大人ぶったって意味ないじゃない。だったらその頃と同じように話したいし。今みたいにね」
『瀬戸の場合、全部同じだろ?』
 渡す。もう一つが返される。
 そして光希がゆっくりとメモを読み上げる。
「あのねー、私だってしかるべき場所ではちゃんとしてます!」
 二人のメモ帳が律也の文字で埋まっていく。文字と声。それでも二人の会話は昔のまま、速度は二倍近く遅くとも、気持ちのぎこちなさは生まれずに進んだ。律也の心に暖かいぬくもりが灯る。

 ……――本当に、こいつは変わってない。

 その変わらない態度が、律也には何よりも嬉しかった。今この瞬間だけは高校の自分に返ることができた。「大人」を理由に理不尽に感情を抑えることのない、楽しかったあの頃の自分に。




「……そっか。実家に帰ってきてたんだ。どうりで普段は見かけないと思ったよ」
 その後、律也と光希はグラウンドのベンチに座ってお互いの近況を話し合った。光希はずっと実家暮らしだったらしい。しかも彼女の職業は――。
『しかし、瀬戸が絵本作家か。スゴイ話描いてそうだな』
「……律也くん、私のこと一体なんだと思ってるの?」
 驚いたことに彼女は絵本作家として活動しているとのこと。律也は一瞬驚いたが、頭の片隅で妙に納得していた。作家というのは、大半が変わった性格をしているものだ。やたら子どもっぽい光希の性格も、絵本作家であることが影響しているのかもしれない。ああいった本は、純粋さがなければ描けない部分もある。
『まあ、どんなものか見てみたいな』
「うっ、それは、少し恥ずかしいかも……」
 光希は照れたようにメモ帳から視線をそらすと、ふいに空を見上げた。遠くを眺めるように目を細めて、つぶやくように言う。
「……声がでない、かぁ。それも……大変だよね。電話とか、一人だとどうにもならないもんね。やっぱり」
 律也はその言葉に瞳を曇らせて、同じように空を見上げた。小さな雲がのんびりと流れていく。しばらくお互いに何もしないで空を見ていた。どこまでも突き進めそうな青い深い空。吸い込まれそうになっていると、律也の横から明るい声が響いた。
「……うん。でも声なら治る方法いっぱいあるみたいだし。律也くんなら大丈夫だよ!」
 何を根拠にと光希に視線を戻すと、彼女は笑って立ち上がった。
「だって律也くん、昔と同じ笑い方してたもの。律也くんってどんなに辛くても最後には這い上がってたし。それにね、嘘じゃなくて笑えるなら、まだ大丈夫だから。――なんちゃって。えへへ、それじゃあ私、そろそろ行くね」
 ひらひらと手を振る光希に、律也もつられて片手を上げる。
「私ここの図書館にはよく来てるから。またね」
 再会の言葉には、自分の意志でうなづき返した。軽く、笑いながら。
 それに微笑み返して光希は歩き出した。二メートルほど歩き、ふいに振り返る。

「あのね、こう言うのって不謹慎かもしれないけど……私、今律也くんが元気で生きていてくれてるの嬉しいよ。――治って良かった、って思う。声、なくなっちゃったけど、それでも嬉しい。……ごめんね。痛いのにひどいこと言って」

   どこか悲しげな笑顔でそう言うと、光希は今度こそ振り返らずに去って行った。律也はその場から動けない。ただ呆然とそれを見送るだけ。
 胸の中を不思議な感情が渦巻いている。いつもの苦痛とは別に混じる、何か、泣きたくなるような……そう、喜び。これは喜びだ。自分は喉頭癌になってから初めて、他人からのいたわりを素直に受け入れている。
 そう気づいたとたん、律也の瞳が急激に熱くなって視界がぼやけた。あわててぬぐいながら立ち上がる。いくら嬉しかったからって、こんな外で、大の大人が……。
 思わず律也は苦笑してしまう。さっきまで高校生に戻っていた人間の言えることではないだろうに。それとも戻っていたからこそ、素直になれたのか。
 どんな理由であれ、その胸のぬくもりは律也に力を与えていた。ぐらついていた足がひさびさに地面をしっかりと踏みしめている。

 俺はまだ大丈夫……か。そんなこと言われたら、もう逃げるなんて格好悪いことできなくなるだろ。
ったく、――結局どんなに大人ぶっても、今でも俺はおだてられなきゃ勇気もでないガキのまんまか?

 それでも、そう言われたからには、やらないわけにはいかなかった。
 男として、大人としてのプライドは、まだ消え去ってはいない。
 律也は大きく伸びをしてから歩き出す。
 銀色のプレートに向かって、最初の一歩を。


→第二章 1