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春の終わり<2>



 ――そして実家に帰って一ヶ月、律也は布団から起き上がり着替えを終え、ぼんやりと部屋の窓から景色を眺めていた。隣りに建っているこちらと同じ形の木造の家。その茶色い壁の前には一本のひょろ長い杉の木が生えている。
 昔見ていたものとまったく変わらない景色に、律也は懐かしさを感じると同時に理由のないあせりが騒ぎ出すのを感じた。どうも時間が数年巻き戻ったみたいで落ち着かない。机の上の原稿用紙の束だけが、今という現実を教えてくれた。
 視線をずらして時計を確認し、律也は部屋から出て階段を下りた。ぎしぎしと鳴る木の階段が家の古さを知らしめる。本来なら改築するはずの資金は、律也の入院費に消えていったらしい。それを知った時、律也は衝動的に家も自分も破壊したくなった。もっとも、実行できるほどの狂気にも染まれなかったが。

「あ、おはよう律也。朝ごはんできてるわよ」

 階段を下りてすぐのリビングから、母親が笑顔で声をかけてきた。すでに食事を終えた父親は律也を一瞥して、何も言わずに広げた新聞に戻す。律也も特に反応せずイスに座った。テレビのニュースがバカみたいに明るく響く。
「はい、お待たせ」
 無言の食卓に置かれるできたてのおじや。やわらかそうなご飯と一緒に、にんじんや大根などの温野菜がほかほかと湯気を立てている。
「ほら、今日は律也が好きだった具だくさんおじや。あなたまだ少しやつれ気味なんだから、しっかり食べて元気つけなくちゃダメよ?」
 まるで病気の子ども扱いだ。律也は苛立ちを押さえながらスプーンに手をつけず、机の上に置いてある玩具のホワイトボードを手にとった。付属のペンのフタを開け、さらさらと文字を書いていく。律也にとって、貴重な会話の道具だった。
『熱いものは食べづらいって教えただろ』
 書き終えてペンをボードから離す前に、母親は慌てた様子で顔をあげる。
「え、えっ、そうだったかしら? ゴメンなさい、あったかいほうがおいしいって思ったから……。うっかりしてたわ、どうしましょう」
 おろおろと謝りながらすがるような目で見られ、律也は内心うんざりした。実家に帰ってから、いや喉頭癌だとわかった時から、この母親はいつもどこかオドオドするようになってしまった。本人はそれを隠して明るく振舞っているつもりらしいが、それがかえってギシシャクした空気を生み出している。本人も気づいているけれど、どうすればいいのかわからない様子だった。律也にはそれが不愉快で仕方がなかったが、指摘する気にもなれず、常に嘘くさい空気が家の中を支配していた。

「冷ませばいいことだろう」

 平坦な声で父親が言う。元々無口だった父親は、実家に帰った律也に何も言わず、態度も昔通り変わらなかった。だが律也は、父がなるべく自分と目を合わさないようにしていることに気づいていた。今もそのまま立ち上がり「行ってくる」と言い残して家から出て行く。律也は思わず口の端を上げて苦笑した。

   まったく、腫れ物ってのはこのことだ。

 スプーンでおじやをかき回し、充分に冷ましてから口に入れる。喉の機能の一部分を失っただけで、普通の人間ならできる口で冷ます、言うなれば「フーフーする」という行為すらできない。呼吸は全て、ほんの数ミリの穴だけが頼りだ。さらに鼻呼吸ができなくなることで、律也にはほとんど匂いを感じることができなくなった。それの影響で味覚も低下している。もはや嫌がらせのオンパレードだ。
 食べるというより流しこむだけの食事は、ひどく不味く感じた。
「……ねえ、律也」
 食べ終わるのを見計らって、母親が声をかけた。
「これなんだけどね、行くに越したことはないと思うの」
 そう言って紙を差し出す。そこにはレタリングででかでかと《社団法人 ほととぎす》と書かれていた。すぐ下に説明文が続く。『ほととぎすは声帯を摘出し声を失った人たちがお互いに助け合い、親睦を深める団体で……』
 律也はあからさまに表情を歪ませた。ゆるゆるとかぶりを振って立ち上がる。
 母親はあわてた様子でその後を追った。

「で、でもほら! 行ってみるだけでも違うでしょ? この、食道発声ってね、これができれば、ほとんど以前と同じようにしゃべることができるらしいのよ。だからとりあえず見学だけでも……律也!」

 母親の声を無視して、律也は階段を荒々しく上り部屋に引き返す。そのままドアを閉じて布団に仰向けに倒れた。両手で顔を覆う。パーマがとれかけ、疲れた顔に哀れみをこめた笑みを貼りつける母親の顔を脳裏から振り払い、何度も深呼吸して苛立ちを抑える。
 食道発声。……言われなくても知っている。東海林医師からも説明されたし、リハビリのとき病院内にある「発音教室」というものも紹介されて行った。行ったさ。それで必死でやって……結局、何も、音は出てこなかった。まるで呼吸困難のように口を開け閉めしたり、肩を上下させて口を開けているだけの自分は、ひどくみじめだった。その姿を人に見られるのも嫌だった。「あせってはいけないよ」と言う指導員は、まるで優越感に浸っているようにしか見えなくなっていた。
 そして律也は退院を早めてもらい病院から出た。限界だった。

 ――だから、どうせその法人に行ったところで、同じ事の繰り返しだろ?

 そこまで考え、律也は自嘲した。結局のところ自分は逃げているだけだ。そう、ガキみたいに。

 ぴるるるる ぴるるるる

 唐突に携帯が鳴った。はっとして布団の横に置いておいた携帯を取り上げて画面を見る。桐生そら――担当していた作家の名前。
 即座にボタンを押すと、甲高い声が大音量で噴き出した。

《ちょっと守谷ぃ〜! 斉藤が怖いんだけどどうにかしなさいよ! あんたが勝手に担当辞めたせいで〆切が厳しくなったのよ! やばいわやばい、斉藤頭固すぎ! 脱走すら出来ないわ嫌味ったらしいわ、悲惨な状況現在進行形! あんた喉かっさばいたくらいで引きこもんじゃないわよ! おごってやった恩を忘れたの! 義理人情は生きていく上で必須よ、必須!》

 思わず律也は脳内で以前のように言葉を返した。
 それはあなたが「あんた私が人におごって得る優越感を侵害する気?」と脅したからでしょうが。それにまたやろうとしたんですか、脱走。
 目の前にありありと、パワフルでわが道を行く女性作家の顔が浮かぶ。

《ちょっと聞いてるの? 声が出ないなら今すぐしゃべれるようになりなさい! そして斉藤の攻略法を……って、わっ斉藤! ち、違うわよ? そんなまさかこの私が現実逃避するわけないでしょう? 実家の母と親子愛について語ってただけよ。……そ、そういうわけだからお母さん。今言ったもの、すぐに送ってちょうだい。お願いね》

  電話は来た時と同様に唐突に切れた。ぽかんとしていた律也は、すぐに気を取り直してメールを打ち、桐生のパソコンメールに送る。
『斉藤の攻略法・伝説のアイテム「新作の原稿(完成品)」を使う』
 それからふっと笑って再び布団に転がる。どいつもこいつも、みんな自分勝手だ。
 律也はまったく変わらない彼女の突飛さにひとしきり笑った後、起き上がった。ふいに目が机の上の原稿用紙に向かう。……もっともこちらの物は、仕事としてまわしてもらっている校正用の原稿だが。

『血ぃ吐いてでもしゃべれるようになって』
『今すぐしゃべれるようになりなさい!』

 原稿を見下ろし、律也はそっとそれに触れた。下積み時代に校正技能を会得しておいたおかげで、自宅校正者として職は失わずにすんだ。もっとも稼ぎはパートの主婦と同じぐらいのものだし、充実感も以前の生活とは程遠い。

   そういえば、楽しくて笑ったのはひさしぶりだ。
 
 律也はじっと思案し、机の隅に追いやったノートパソコンに手をのばした。ログインしてインターネットを開く。検索――「社団法人ほととぎす」。開いたサイトのトップページに目を通して、住所を確認する。近い。同じ市内、十五分程度の場所だった。じっと凝視して、何度もその事実を確認する。
 そして、律也は青のジャケットをつかんだ。




 一応東京都内でありながら、ここは新宿や渋谷と比べ物にならないくらい静かな市だった。車の通りが多く歩道橋があるこの並木通りも、車がなるべく音を立てないように走っているように感じる。
 そんな車の流れを横目で見ながら、律也はやたら大きな建物の付近で躊躇していた。高い柵と木々に囲まれた、無機質な白い建物。それは中学校へ通学していたときに、毎日見ていた建物だった。おそらく今回のことがなければ、律也は一生この建物が何か知ることはなかっただろう。

   障害者センター、か。わかりやすいネーミングだな。もう少しこう、遠まわし……にしたら気づかない奴がでてくるのか。

   ちらりとくすんだ銀色のプレートを見て――入らずに通りすぎる。かれこれ数十分。先ほどまで律也が通っていた中学の制服を着た学生が大勢見られたのだが、じょじょに数が減っていき、顔を赤くして走り抜ける者もいなくなり、人はほとんどいなくなった。幸いバス停がすぐ近くにあるので、待っているフリをして時間は稼げる。しかしそろそろ入り口に立つ守衛の視線が痛くなってきた。
 軽く鎖骨の辺りに手を触れ、視線を下ろす。まだしぶとく残っていた桜の残骸が、赤いレンガの地面にへばりついている。汚く、醜い。咲いているうちはキレイなのに、地面に落ちてしまえば、それで終り。元に戻ることは決してない。それはまるで俺の……。
 律也は頭を振って思考を打ち切った。

 自虐的になったところで、どうにかなるわけでもないだろう。バカバカしい。

 息を吸って、喉の辺りで飽和する。いまだに慣れないこの感覚。けれどこれが、これからは永遠に続くのだ。ずっと、死ぬまで。
 顔を上げると守衛と視線があった。思わず固まり、数秒。守衛の口がわずかに動く。
 ――――っ。
 律也は条件反射的に背を向け、その場から離れた。体内を縮小するような不安が全身を支配して吐き気がする。脳裏に浮かぶ指導員の優しすぎる笑み。不快。不安。不安。意味もなく叫びだしたくなり口をあけ、……閉じる。出るわけがない。
 指先が冷えて、震えた。必死で平静を保ち、上品そうな老女とすれ違う。
 結局律也の足は止まることなく障害者センターを離れ、新緑が芽生えだした並木道を歩き、気づけば公園の方まで歩いていた。
 竹組みの柵の向こうに、昔よく遊んだターザンロープがある。時間が時間だけに誰もいない公園。律也は懐かしさに誘われるように中に入った。ぶら下がった荒縄の感触に泥とイグサの匂いを思い出し、無性に泣きたくなる。
 そう、あの頃は遊ぶことに必死で、こんな世界があるなんて知りもしなかった。声が出て、匂いがあって、味がして、息苦しくなく感情を抑えることもない。それはとても幸せなこと、だった。
 ターザンロープから離れて、横に設置された巨大な土管に背中をつけてよりかかる。日差しにあたっているおかげで、ぽかぽかと暖かい。

 小学生の時はこいつを勝手に秘密基地に認定して、一日中こもっていたこともあったっけか。ダチが入ってくる時点で秘密もクソもないだろうに。バカだったな、俺。

 野球が二試合同時にできるほどの巨大なグラウンドを見ながら、ぼんやりと笑う。懐かしい。懐かしすぎて、胸が軋む。
 しばらくそのままぼんやりしていると、視界の端に何か動くものが映った。わずかに顔を動かすと、公園をニ分割するレンガの通路に女性が一人、こちらを見ながらウロウロしている。律也が見たことに気づいたのか、びっくりしたようにひるんで、ちょこちょこと早足で通路の奥へと歩いて行った。

 なんだ……? あっちは確かテニスコートがあって……ああそうだ、図書館があったな。しかし今のは俺を見てたのか? まあ、平日のこんな時間に、いい大人が土管に寄りかかっているのは怪しいか。

 律也は勝手に納得して顔を戻し、目をつぶった。別に怪しくてもかまわない。今はこのぬくもりにひたっていたかった。眩しい闇の中、いろんな音が聞こえる。頭上を鳥のさえずりが通りすぎていく。遠くからは車が走り去る音。風がほほをくすぐれば、木々が揺れてさざ波のような音。そして――。

「……律也、くん?」
「!」

 突然の声に律也が勢いよく目を開けると、少し離れたところにさっきの女性が立っていた。


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