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春の終わり<1>



 二〇〇三年の四月下旬。
 その頃になってようやく、守谷律也 (もりたに りつや) は目が覚めたときに映る光景に違和感を感じなくなった。子供の時はオバケの顔にも見えて恐ろしくもあった天井の木目を認識し、無意識に鎖骨の辺りに手をあてる。そこにあるのが肌の感触でないことに、彼は日課になりつつある自嘲の笑みを浮かべた。

 現実の方が悪夢なら、いっそずっと寝ていた方がマシだな。

 だからといって、実行したところで叶うはずがないのだ。ここは数ヶ月前までの自由気ままな自分の城ではない。寝過ごせば起こしにくる人間がいる。
 戸惑いがちな、それでも不自然なまでに優しく訊ねる母親の声を思い出し、律也は顔をしかめた。それこそうんざりだ。
 結局、彼は体を起こし、覚めない悪夢へと身を投じるしかなかった。




 きっかけは、ほんの些細なことだった。
 夜中に咳がでたり、付き合いのカラオケが歌いにくかったり。そんな小さな変化に苛立ちを感じることはあっても、いちいち気にしてはいられなかった。出版社勤務という全てが不定期の生活の中で、病院に行っている暇なんてない。勤務三年目、ようやく仕事にも慣れて、担当の作家にも気に入られてきている。そんな喜ばしい状況と責任感から、律也はのど飴片手に仕事に走り回って、体からの訴えを無視し続けた。

 去年の十二月、朝吐いた痰に、ほんの少し血が混じっていた。

 それでも律也はさして危機感を抱かなかった。年末の忙しさで疲れているのだと、たかをくくっていたのだ。それでも多少の心配はあったので、年明けの休みに病院でも行こうかとうっすら考えながら出社した。
「……守谷、お前なんか声、ヘンじゃねぇか?」
 休憩時間に、クリスマスの無意味さを延々と語っていた同僚が、おもむろに律也を見て言った。
「ん〜、いや、まあ。ちょっと喉の調子が悪いだけだ」
 缶コーヒーをデスクに置いて、曖昧な笑みを浮かべながら答える。同僚の高田はずんぐりした体をイスごと律也に向け、太くて濃い眉毛をひそませた。
「おいおい、このくそ忙しい時期に風邪ひいたとか言うんじゃないだろうな」
「言ったら休ませてくれるのか?」
「それが出来れば、俺はこの寒い心を病気と偽る」
「それこそ編集長に殺されるな」
 律也の言葉に、高田は大げさに目を見開いた。
「なにを言う。クリスマスやらバレンタインやら行事が起こるごとに苦しくなるんだからな。きっと重い病に違いない。入院が必要だ」
「はいはい。お大事に」
 笑いを含んだ声で相づちを打つと、高田は恨みがましそうに律也を睨んだ。
「いいよな、守谷は。モテル野郎にはこの苦しみはわかるまい」
「俺も今年は一人寂しくクルシミマスだ。安心しろ」
 律也はそう言った直後に咳をした。痰が絡まっている濁った咳に、高田はやや心配そうな顔になる。
「おい大丈夫か? ひどくなる前に早めに治せよ。一人でも欠けるとシャレにならんからな、この時期は」
 周りを見ると、ビデオの早回しのように忙しく動き回る同僚達の姿が目に入る。
「ああ、わかってる」
 律也はうなづいて立ち上がった。そろそろ打ち合わせの時間だ。のど飴を一つ口に放り込み、黒のロングコートを手につかむ。そうしている間にまた起こる咳。

 仕方ない。高田の言う通りに早めに対処した方がいいな。

 貴重な休息が潰れることにため息をついて、律也は明日の空き時間に病院に行くことを決意した。
 そしてそれが――運命の分かれ道だった。




「結果から言いましょう。喉頭癌です」

 目の前の白衣の男から出た言葉に、律也はとっさに何の感情も浮かべられなかった。
 高田と会話した次の日、内科に行った律也は診察後、ややこわばった顔の医師に紹介状を渡された。行き先は耳鼻喉頭科。ふいに湧きあがる不安を抑えながら、無理を言って会社の方に時間を空けてもらい、その大きな総合病院の門をくぐった。
 そこで何がなんだかわからないまま、一週間も検査をされた。理由を聞いても「まだ確定したわけではないですから」とかわされ、怒りと焦りがごっちゃになった感情を持て余す。ひたすら編集長に頭を下げて一週間。結果を報告するから親御さんを呼んで欲しいと言われた時は、不快感すら覚えた。いい加減にしてくれと怒鳴りたいくらいだった。だが、そうした怒りの内側に、堪えきれない不安を押し隠していたことに、律也は気づいていた。とにかく自分がどうなっているのか知りたい。その一心で、しぶしぶ実家の両親に電話をする。

《な、えっ? どういうことなの? 病気? どうしてそうなるの、何の病気なの?》
「だから、俺もわからないんだよ。説明してほしいのはこっちだ。つまり……」

 案の定パニックになった母親をなだめて事情を話しているときに、受話器を持った手が震えてきた。ただひたすらに疑問を口にする母親の声に怒りを感じることで、冷静さを保っていた。ぎしり、と受話器が悲鳴を上げた。
 そして血相を変えた母親――父親は仕事で来られなかったらしい。むしろいない方が良かったので、律也にはどうでもいいことだ――がすぐに飛んできて、指定の時間に診察室へ行き……。

「こ、こうとうガンって……」

 周囲の壁より顔を白くした母親が、唇を震わせて呟いた。ぱくぱくと口を動かしているけれど、続きが声にならないらしい。そんな母親を視界の隅にとどめながら、律也はじっと医師の顔を見ていた。表情も感情も動いていなかった。
 胸に『東海林 (しょうじ) 』と書かれたネームプレートをつけた中年の医師は、手に持ったカルテを軽く持ち直して律也の視線を受け止める。やや白髪が混じった髪に細身の体。深いしわの刻まれた優しげな顔は、今は厳しく引き締められている。
「喉頭は声帯を中心とする声門部と、それより口側の声門上部および気管側の声門下部に分けられますが、守谷さんは声門部に癌があります。癌治療には放射線治療、抗がん剤の投与、そして削除手術がありますが……現在の進行状態では、手術が一番再発の心配がなくなるでしょう」
   淡々と、診察室に東海林医師の声が響く。それが途切れて数秒後、律也は感情のこもらない声で聞いた。

「声が、出なくなると?」
「癌細胞を全て取り除く為には、声帯の全摘出はやむをえないのが現状です」

 その絶対的な返答にも、律也の表情は動かなかった。心に届くものは何もなく、いうなれば無の感情が彼を支配していた。

 癌。喉頭。声帯。全摘出。
 ……何だそれは? 意味がよく、わからないんだが。声が――出なくなる?

「ど、うして……なにが、原因なんですかっ……」
 母親が目を赤くして医師に詰め寄る。声はすでに涙で掠れていた。
「一番の原因はタバコ、ということがほとんどなのですが……」
 医師は言葉を濁らせて律也をちらりと見た。その何かをうかがうような目に、律也の感情にゆらり、と蠢くものが生まれる。
 確かにタバコは吸っていた。が、ストレスが溜まった時ぐらいで、ヘビースモーカーとは程遠いものだ。編集室にタバコの煙が充満していることもよくある。だからといって四六時中そこにいるわけではないし、それが原因なら同僚全員が喉頭癌だ。
 無言の律也に、しかし東海林医師は表情を穏やかに緩ませた。そのわかっているとでも言いたげな顔に、蠢きがさらに大きくなる。

 ……お前に何がわかるんだ。俺を、そんな目で見るな。

 意志が通じたかのように、医師は視線を母親に戻した。
「そもそも喉頭癌というのは、十万人に三人程の、頻度の低い癌なんです。それに発病のピークは六十代なので、守谷さんはお気の毒ですが、非常に稀なケースのようですね。……しかし若いぶん、有利な面も多いですから」

 有利な面? 癌になって、声が出なくなって。何が有利なんだ?

 ゆらゆらと蠢いていたものは、次第に渦を巻き始める。気分が悪い。
「そ、そんなっ、どうして、うちの子がっ……まだ二十五なんですよ!」
 叫ぶような母親の声が、もはや耳障りにしか聞こえない。渦を巻き、音のない台風のように体の中を広がっていく蠢くものは、どす黒い感情に変わっていった。

 ……黙れ、わめくな。うるさいんだよ。

「免疫などが高齢者の方に比べて高い分、抗がん剤などの使用も減るでしょうし、体力もある。癌の転移も酷くはないので、放射線治療も少なくて済みそうです」

 どちらにせよ、やるんだろ。だったらグチグチ言うな。馬鹿かお前は医者のくせに。

「本当ですかっ?」
「ええ、ですが、今すぐ入院という処置をとらせていただきたいのですが」

 ふざけんな俺は忙しいんだこっちの都合も考えろよ。そもそも張本人の俺を外して会話を進めること自体が間違っているのに、こいつら……!

「は、はい、そういうことなら今すぐにっ! ね、律也、お母さんが準備とか全部するから、あなたはここにいなさい。大丈夫よね?」
 東海林医師に詰め寄っていた母親は、体ごと振り返って律也に問いかけた。返事はできない。口を開けば憎悪にまで高まった黒い感情をぶちまけてしまいそうだった。ギリギリの倫理とプライドでそれを押しとどめていた律也だったが、母親はそれをショックのため茫然自失になっていると受け取ったらしい。もはや耐え切れないというように涙を流しながら、律也の握りしめたコブシを両手で包み込む。
「律也、大丈夫っ、だい、じょうぶ、だから……! 治る、んだから、ねっ。ねっ?」
「…………ああ」
 すがりついてくる母親を突き飛ばしたい欲求を抑えながら、律也はなんとかそれだけ言った。まるで唸り声のような低い声だったが、ここにはそれを同情するような顔で聞く者しかいない。その後、詳しい説明に入っても、蠢く怒りが消えることはなかった。




 それから二ヵ月半の入院生活は、律也にじわじわと苦痛を与えていくものだった。
 手術前の抗がん剤は、吐き気をもたらし気力を奪う。医師達はせめて部分切除にできないかと試行錯誤してくれていたが、律也にとっては苦痛の上乗せでしかなかった。まるで実験のモルモットになったような錯覚に陥るたびに、蠢く怒りを浮上させて気をそらしていた。しかし次第にそれも虚しくなってくる。
 同じ病室の人間の好奇に満ちた目。看護婦のいたわりや優しさ。母親のから元気な振る舞い。病院内に充満した消毒液の臭い。ここにはろくなものがない。
 それでも律也は話しかけられれば声を出して返す。

「守谷さん。調子はどうですか?」
「ええ。今日は楽ですよ。昼ご飯が楽しみです」

 なるべく陽気に。いつもの話し好きな自分を崩さないように。それが虚栄心なのか、ただの大人としての意地なのか、律也自身にもよくわからなかった。

「律也、何か欲しいものはある? 母さん買ってくるから」
「いや、……ああ、なんか雑誌がいいかな」
「食べ物は? あ、ねぇ、なにかお菓子とか食べたいんじゃない?」
……くえるかよ
「え? ごめんなさい、聞こえなかった」
「…………だから、んな甘いものばっか食ってたら太るだろ。いらないっての」

 ただ嘘をつくのが上手くなっていくのだけは確実だった。自分の感情を抑えて周りに心配をかけないことが、ある意味彼の支えだった。内に秘めた怒りを表に出さないことが大人の義務だと信じていた。
 年末年始は病院で終わり、始まった。消毒液と得体の知れないモヤモヤした臭いに包まれた新年はまったく実感が湧かず、律也はなんだか偽物の世界に閉じ込められている気がした。

   そして一月八日、手術の日が明日に近づいた。

 東海林医師が最終確認のため、律也のベットまでやって来る。
「手術ですが、喉頭部の癌細胞を摘出して、口と胃を直結させることになります。そのため呼吸は喉の部分、だいたい鎖骨の間あたりですね。そこに気管孔という穴を開けて行なうことになります」
 そんなことは初診断の時から聞いていた律也は、けだるそうにうなづいた。
「もうわかってますよ。……すべてお任せしますから、さっさとやって下さい」
 ほとんど投げやりにしか聞こえない声に、東海林医師はわずかに目を見開く。
「守谷さん。そんな風に諦めてしまってはいけませんよ」
「……もう疲れましたから。いいんです」
 久々に本音をもらして、律也はどこか気分が楽になった。蠢くことを止めて凝り固まった怒りが、わずかに軽くなった気がする。
 ところが東海林医師は厳しい顔つきで言った。
「守谷さん。あなたは抗がん剤も効いていて、転移もほとんどないんです。全摘出は残念なことだと思いますが、おそらく今回の手術で完治することができるでしょう。声を失うといっても、今現在、発音のための特殊な器具もありますし、声帯ではない別の器官を使った発音法もあるんですよ。……あなたは運が良い方なんです」
 びしり、と体の内側にひびが入った。

 ……『運が良い』?

 凝り固まった怒りに穴が開いて、どろどろとした真っ黒いものが心に溢れていく。
「ですから、諦めずに今は健康になることだけを考えて下さい」
 静かに、静かに。律也の指先は冷たくなっていった。そのままじょじょに冷たさが全身に伝わっていく。少しやつれた体が小刻みに震えだした。

 運が良い。この理不尽な状況も唐突過ぎる運命も、運が良い、と。そう言っているのかこの医師は。運が良い。そうか、運が良いのか、俺は。運が。

「守谷さん? どうしました、大丈夫ですか?」
 東海林医師が心配げに律也の顔を覗き込む。律也はそれを強張った顔で見ながら、わずかにみじろぎした。シーツの下に隠れている手が握り締められすぎて痛い。今すぐこいつを殴りつけたいと思う意思に反して、体は疲れきったように動かなかった。ゆるゆると力が抜けていく。律也は緩んだ顔に、笑顔を無理やり貼りつけて言った。
「……寒い、だけです」
 そして律也は、怒ることすら諦めた。そのかわり、世界がどこか底冷えのするものにしか見えなくなった。手術の前夜は、ひたすら口の中で言葉を呟いて過ごす。これが最後の声帯での声だと思うと、怒りではなく、瞳に熱くて痛いものが込み上げてきた。
 ――その時から彼は、自嘲することを覚えた。




 退院は、三月の下旬だった。鎖骨の間に永遠に閉じない小さな穴を開けて、律也はその病院を後にした。身体障がい者三級の手帳を受け取り、その足で出版社へ向かう。
 ごちゃごちゃした編集室に入ると、タバコの煙と室内の視線がこちらに流れてくるように思えた。臭いは感じない。けれど鼻の奥に染み付いてしまったタバコの臭いを思い出し、律也は一瞬顔をしかめる。それでもすぐに奥の机に座っていた編集長に向かってぎこちなく笑顔を浮かべ、中に入った。
「守谷……お前、その……元気か?」
 会釈して自分の席に向かうと、高田が横の席から言いづらそうに声をかけてきた。律也は肩をすくめて苦笑いをする。そのいつもの仕草に高田もやっと表情をほころばせ、ずんぐりした体を縮こませて小声で聞いてきた。
「お前、マジで声出ないのかよ?」
 律也はぴくりと眉を動かした。が、そのわずかな動作に高田は気づかない。それに安堵しながら律也はさらに笑みを深くして、シャツの襟を引っ張って見せた。服に隠れて見えないように、喉に湿布のような白いものが覆ってある。それはひもで首に固定されていた。器官孔に直接ほこりが入らないようにするプロテクターと呼ばれるものだ。当然そんなもの知らない高田は、それでもぎょっとした顔になる。
 何も言えずに落ち着かない様子の高田に構わず、律也は自分の机の私物を持参した袋に入れていく。さほど量はなかった。必要ないものや書類は会社の方で処分してくれるだろう。その辺のところは事前にメールで連絡を取ってある。
 最後の確認をして、編集長の席へ向かった。深く頭を下げると、いつもは疲れた顔ばかりしている岩井編集長は、しかめっ面で口を開いた。

「お前がいないせいで、俺達の年末年始は地獄絵図だった」

 律也は軽く目を伏せた状態で、もう一度頭を下げる。岩井は黒いフレームのめがねを押し上げた。
「……それについて文句を言う奴は腐るほどいるが、恨んでいる奴は一人もいない。いいな守谷、それだけは忘れるなよ。少しでも罪悪感を感じる暇があるなら、血ぃ吐いてでもしゃべれるようになって、もう一度ウチに就職してこい」
   その言葉にうなづくことも首を振ることもできず、律也は三たび頭を下げ、きびすを返した。相変わらず忙しく動き回る同僚達から、ちらちらと好奇と同情の混じった視線が投げられる。脇目も振らず律也は袋を持ち、出版社から外へ飛び出した。そのまま大通りまで小走りで向かい、雑踏に紛れて流れのまま歩く。編集長の言葉が重い。今の律也にはその言葉に応える精神力も、希望も、言葉もなかった。薄く開けた口から、しかしため息を漏らすことは叶わず、律也は歯を食いしばって強く目をつぶった。闇の中、肩に、腕に、体にぶつかって行く人を感じ、思わず倒れそうになりながら込み上げてくる苦痛に必死で耐える。やがてまぶたを上げた彼の瞳は、膜に覆われたかのように暗いものだった。気だるげに自嘲の笑みが浮かべ、律也は行く先も考えず雑踏を歩き続ける。

「     」

 声にならない声は、雑音に押し潰され消えていった。


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