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この世界について語るには、光と花が必要だ。 いや。必要というよりも、切り離せない……と言うべきか。 ある日、前触れもなく空から生まれる一筋の光。 淡い黄の輝きを放ち、人が包まれる程度の大きさを保つ光。そこへ愛する故人を想いながら一輪の花を入れると、その花はまるで優しく引寄せられるかのように空へと浮上する。 花でないとダメだ。 他の物は一切空へと還ることはなく、ただ静かな光に照らされるだけ。そして想い描く相手がいなければ、花は手から旅立つこともない。 光と花。二つが揃わなければ起こりえない、空への奇跡。 そして花を送って一日経てば、花はその光の道を通って、再び地上へと降りてくる。想い人の気持ちが形になったかのように、送り人の一番好きな色に花びらを染めて。 そう、一日経てば必ず戻ってくる。 相手が還らぬ人になっていれば。 ――相手も同じように想ってくれていたならば。 その条件を満たしていなければ、花は、決して戻らない。 これが空からの返答。この世界の現実だ。 ……そこの窓。ガタはきているが大きさだけはあるからな、よく見えるはずだ。まあ、この店に入ったんならすぐ間近で見ただろう? そう。空からずっと一直線に淡い黄の光がさしている。 アレは本当に唐突に現れて、こちらの都合も考えずにふいに消える。ああ、今回のはなかなか消えないな。 おかげで、こんな寂れたチンケな喫茶店でも大繁盛だ。 いや嬉しくはないね。どちらにせよ、送る時も受け取る時も誰かと一緒に、なんて誰も考えないからな。店には基本的に客は一人しかいないもんさ。 ――ほら、今日も客がやってきた。 カランカランと馴染みの鈴の音が鳴って、古茶けたドアがゆっくりと開く。現れたのは長い金の髪を持つ女性。 「マスター」 うわ言のように呟き、彼女はどこか羽毛の上を歩いているような足取りでカウンターに座った。そして、視線はいつものようにカウンター奥の机に置かれた花瓶へと固定される。 そのまま彼女は、美しい彫像へと変化してしまう。 ぴくりとも動かず、声も出さず、何があっても揺るがない、そんな白く柔らかな肉を持つだけの彫像に。 私の役目は唯一つ、彼女の前に熱い紅茶を出すだけだ。 目の前で微かな食器の触れ合う音を立てても、美しき彫像に反応はなかった。甘い香りを湯気にのせ、白い気体が彼女の髪に触れて霧散していく。静かな時間。無音の空間。 その温もりで人であることを思い出したのか、ふいに彼女はやんわりと、凍った仮面が溶けるように微笑んだ。 「あの人ね」 視線だけは一点を見据えて動かさずに。 ピンク色の口紅で染まった唇が、ゆっくりと動く。 「生きてるの」 彼女の瞳は美しい。 雲一つない晴天の日のような、汚れを知らない太古の海のような、そんなどこまでも透き通った青の瞳。 ――透き通りすぎていて、何も映していなかった。 「あの人、昔からおっちょこちょいだったから。きっとね、自分では連絡したつもりになってるのよ。そうなのよ」 この世の何も映さず、彼女はただひたすらに花瓶だけを見つめている。 「そうなの。そうなのね。そうね。そう。そうよ」 彼女は初めて顔を上げた。 「そうなのよ。ね?」 「……ああ、そうだな」 相づちを打てば、彼女は破顔して何度もその言葉を繰り返す。そうなのよ。そうなのよ。そうなのよ。繰り返すたびにその瞳はより一層透き通って虚ろに輝いていった。 「そう、……」 言葉はふいに途切れ、彼女は再び花瓶に視線を戻した。 一瞬だけ彫刻に戻った顔は、すぐに愛しいモノを見つめるような笑みへと変わる。 「あの人、白い花が好きだと思ってたんだけど、きっと本当は黄色の花が好きなのね。あの人ってば気にいらないことがあると、すぐに拗ねちゃうから。だから明日は黄色い花ね。ねえマスター、黄色の花はなにがあるかしら?」 答える前に彼女は立ち上がった。 目の前の紅茶に手をつけることなく、ダンスを踊るようにふわりと踵を返す。そして来た時と同じように、頼りない足取りで出口へと歩いていった。 ドアノブに手を触れると彼女はふいに動きを止めて、体を捻るようにしながら振り返った。.頬に数本金の髪を張りつけたまま、うっすらと口を開いて天井を見上げ、心底不思議そうに首をかしげる。 半端に開いた口から平坦な声が流れた。 「ねえ、あの人、どこにいっちゃったのかしら?」 そして、彼女は、上を見上げたまま店を出て行った。 振り返らずに、ただ空だけを見て。 ――アレが誰を待っているのかって? さあ。知らないさ。彼女の名前も、想い人が誰なのかも。そもそも、その想い人の生死すら私にはわからないからな。 客と店長の関係なんてそんなもんだ。特にココに来る客との関係は。 ……なあ、彼女はいつまでココに来ると思う? 想い人が、家に帰ってきたことを知ったときか。 想い人が、空に還っていたことを知ったときか。 いや……聞くだけ無駄だな。どちらにせよ、彼女は明日も来る。明後日も、その後も。 おそらく、この世界に存在する色全ての花を捧げるまで、ずっと。手段がなくなるまで諦められないんだろうよ。 別に、送り人には相手の好きな色なんて関係ないのに、な。 ああ。紅茶、冷めちまったな。もったいないねぇ。 いや、これは単に私が勝手に出してる代物だからな。金は取ってないさ。……そんなことよりも、ほら。 また客が来たようだ。 カランカランと馴染みの鈴の音が鳴って、古茶けたドアがゆっくりと開く。現れたのは黒髪黒目の若い男。 彼は押し黙って視線を床に向けたまま、それでも何かに追い立てられているかのようにカウンターに座った。ガタンと音を立ててイスを引き、一瞬だけ奥の花瓶を視線に入れてから両手で顔を覆う。 そして男も沈黙した。 私の役目は唯一つ、男の髪と同じ色をした熱いコーヒーを彼の前に置くだけだ。 液体とは正反対の白い湯気が、板張りの空へと舞い上がる。その温もりと香りに、男はゆっくりと両手を離した。 「……ありがとう、マスター」 小さく呟き、カップ顔から離した両手でしっかりと握り締める。まだ熱いであろうソレをためらいもなく飲み込み、男は大きく息をついた。穏やかそうな深い黒の瞳は、今はただ不安げに揺れている。 「ダメ、だったんです」 男は唐突に沈黙を破った。 目線を下げ、自分が持っているカップの中の液体に語りかけるように、もう一度呟く。 「どうしても、ダメだった」 貧弱というほどではないが、どちらかといえば華奢な肩が小刻みに震えだす。 「どう、してっ……」 苦渋に満ちた顔に、流れることを拒否するかのように涙がゆっくりと落ちていく。絞り出すようにして生まれていくそれらは顎を伝い、男の服に滲んで消えていった。 「愛していたんです」 嗚咽をこらえるくぐもった声で、男は苦しげに言った。 「もちろん、今だって変わらず愛してる。この気持ちに偽りも変化もないんだ。変わりようがないほど想ってる。誰にも負けない自信がある。なのに、それなのに、僕は……」 カップを片手で持ち、開いた右手で再び顔を覆う。その手は次第に上へとずれて、乱れた前髪をくしゃりと掴んだ。 「――怖いんです」 誰に対して言うでもなく、まるで独り言のように呟く。 「想えば想うほど、彼女の気持ちを確かめることが怖くなっていく。もしも、これが僕の一方的な……」 中途半端に言葉を途切れさせ、男は強く唇を噛んだ。 数分ほど沈黙して、男は強引に腕で目元を拭うとカップに残っていたコーヒーを一気にあおる。そのまま息を吐くと、軽く目を閉じ頭を下げた。 「すいません。また、不愉快な話をしてしまいましたね」 「貴方は客だ。気にすることはない」 「いえ、それでも。……失礼しました。帰ります」 そう言って男は立ち上がり、ズボンのポケットから鈍く輝く硬貨を取り出す。 「今の一杯は奢りだ」 「……これは、本来、送るはずの花に使うものでしたから。コーヒー、おいしかったです」 カウンターに硬貨を残し、男はわずかに薄い微笑を浮かべて背を向ける。その足取りは重く、まるで腰から下が泥沼にはまっているかのように見えた。 頭を下に向けたまま、男の手がドアノブを握る。 「……、…、…」 ドアを開け、鳴り響く鈴の音に紛れて、何か名前のようなものを呟いた気がしたが、あいにくと聴き取ることはできなかった。 残ったのは、空になったコーヒーカップと、代金にしてはやや多めの硬貨。 ……まったく、こういう金は重くてしょうがないってのに。 ああそうだ。しばらく窓の外は見るなよ。 あの男、前の時も帰ると言っておきながら、結局光の傍に立ち続けてたからな。……そういう姿はよ、自分だったら見せたくないし、見ていたくもないだろう? ――アイツの想い人? さあな。……何度も言うが、私に詮索する気はない。 ただ、たまに思い出したようにココに来ては、送る花を得られずに帰っていく。それだけは知っているよ。 それだけで、充分だ。 そんな人間はここには沢山いる。『花が戻ってこない』という架空の未来より、『戻ってこないかもしれない』という不安定で、それでも縋る可能性のある現状を選んだ人間は。 いや、選んでいるわけじゃないな。ただ動けないだけだ。そう、あの男も……ん? 気配がないな。おや、どうやら今日は本当に帰ったみたいだ。いや、待てよ。何かが―― そうか。先客がいたのか。 さあ、カップを洗ってしまおうか。 じきに次の客が来るはずだ。おそらく、な。 カランカランと馴染みの鈴の音が鳴って、古茶けたドアがゆっくりと開く。現れたのは――笑顔の妙齢の女性。 彼女は鈴の音に一瞬驚いたように顔を上げ、照れたように微笑みながらカウンターに座った。優雅になびくスカート。夕日に染まった大地のような色の髪と瞳。 そして腕には、リボンが結ばれた一輪の花。 他者の花と混合しないように、いつしか結ぶようになっているリボン。その色は彼女の髪と目の色と同じだった。 花の色は夕日と夜の狭間のような、紫。 その花を愛しむように見つめる彼女の姿から、それが想い人からの返答だとすぐに理解できた。彼女はいとし子をあやすように、細い、けれど荒れた指が花びらをそっと撫でる。何度も、何度も。 私の役目は唯一つ、よく冷えた水を彼女の前に差し出すことだけだ。 その気配に顔を上げた女性は、奥にある花瓶に視線をやった。そのまま目を細め、柔らかな声を響かせる。 「――あなたも?」 私は無言を返し、彼女もまた、無言で答えた。 彼女は歳相応の落ち着いた雰囲気のまま軽い食事を注文し、膝の上に花を置いて静かに食べる。 そして代金を払い、何事もなく立ち上がる。 ふと、目が合った。 頬を染め、幸せそうに微笑んで、女性はもう一度口を開く。 「私はね、この花さえあれば幸せなんですよ」 その瞳はとても綺麗だ。青の瞳の女性とは違う、熱のこもった、けれど――…… 「やっと答えてくれたのだもの。想っていてくれたのだもの。もう決して手放さない。あなたもそうなのでしょう?」 ……――けれど、囚われた者の瞳だった。 「どうか、あなたも幸せにね」 彼女は最後まで笑みを崩さず、想いの通じ合った証拠である花を抱えて去って行った。 カランカランと鈴の音がなる。乾いた音だ。 ……幸せに、か。 さて、彼女は、数年後にも同じことが言えるのかね。 うん? どういうことかって? 戻ってきた花はな、不思議と枯れることなく、ただそこに在り続ける。……自分の想いさえ枯れなければ。永遠に。美しいままに。 逆に言えば、想いが消えれば花も消えるってことだ。 本当に跡形もなく、あっさりと。消えてなくなる。 そして人は、想いが確かな形になって目の前に存在することになれば、それが消え去ることを恐れるようになる。 それ故に、囚われる。失う恐怖から、別の未来を閉ざす。 そういうことさ。 ……そこの花瓶。客が皆見ていっただろ? 正確に言えば花瓶に挿された赤茶けた花を、だな。 そうだな、枯れた花だ。 そして、私の愛した妻の瞳と同じ色の花だよ。 あれはな、わざわざ水を与えなくとも花瓶に挿さなくても、私が想いを忘れようとしない限り、永遠に枯れたまま在り続けるのさ。たとえ何十年経って、私の記憶の中の彼女が薄れていったとしても。 想いさえあれば、消えない。 だから皆、必死で花に縋る。確かな形を求める。 ――本当はこんな花、胸の中に咲いていればいいだけのものだってのに。人は死してもなお、相手の想いを確かめずにはいられない。 それがこの世界だ。 この世界は、光と花に囚われて生きている。 ……さ、話はこれで終いだ。そろそろ帰った方がいい。 ……アンタ、この世界の人間じゃないんだろう? どこからどうやって来たのかは知らないが、あまり長居をしすぎると、アンタも世界に囚われるぞ。 ――それとも、送りたい花があるのかい? いや、別に答えなくていい。悪いとも言わん。 幸せなんてのは人それぞれだからな。止めはしないさ。 だがな、今日はもう店じまいだ。もし、本気でやるつもりなら明日にしてくれ。 そして気が向いたらココに寄るといい。 一杯だけなら奢ってやる。 一杯だけ、だ。 ……帰るのか。 そうか。できれば、もう会わないことを祈ってるよ。 アンタのその瞳は、なるべく生きている者に使ってくれ。 じゃあな。 ……ったく。 生きてる奴がここに来るなんて、世も末だな。 ココに来るのなら、きっちり生をまっとうしてからにしてもらわないとな。まあ、それでも、成仏しそこねて想いに縋りついた死者の世界なんて来るもんじゃない。 生まれ変わることを拒んで、想いに執着して、しまいには時間も存在する物も自分の記憶もすべて歪ませる死後なんて、ロクなもんじゃないんだからな。……いや、この世界に留まっている私が言うことじゃないか。 ――本当に、もう会うことがないことを祈ってるよ。 そして出来れば、あんたの愛した人の墓に花でも添えてやってくれ。花さえあれば、私達は満足なのだから。 |