魔王はじめての○○


 ごつごつとした岩肌に、非自然の淀んだ赤光が反射する。
 大地が誕生した時から子規模な火山活動を繰り返してきた岩山。その内部には、自然の産物ではありえない洞窟群が存在している。それは複雑につながり合い、さらに巧みに隠された仕掛けも相まって巨大な迷宮を形成していた。
 魔力の明かりが届かぬ闇には、まるで同化するかのように魔獣の紅い瞳が浮き上がり、消えていく。

 魔王と呼ばれる存在は、その迷宮の奥深くに鎮座していた。

 重厚な扉を開け、かすかに硫黄の臭いが漂う部屋に入った直後ならば、そのシルエットは辛うじて人に見えるだろう。
 しかし近づくにつれ、その考えは夢想に終わる。
 王冠かに見えたそれは側頭部から生えた二対の角であり、裂けた顎には竜の鱗すら食い破ると思われる牙が備わっている。人より遥かに巨大な体躯は、見る者を畏怖させる闇のごとき気配を纏っていた。
 魔王は乾いた血を彷彿させる赤瞳を細め、ゆるゆると体内の空気を吐き出して呟いた。
「――難儀なモノだ」
 地を擦る重々しい低音は誰に聞かれることもなく、薄暗い岩で囲まれた空間に霧散する。
 再び沈黙が部屋を支配すると同時に、魔王の眼前に蒼い光が生まれた。光の粒子は銀の毛並みをもつ狼に変わり、静かに深く頭を垂れる。
「件の勇者と称する人間、無事に麓の森に置いてまいりました。運が良ければ死にはしないかと」
「そうか。帰還早々に一苦労だったな、ゼ・イル」
「王の役に立つ事こそが、私めの存在意義。喜びを感じることはあれど、苦労など微塵も存在いたしません」
 そう言ってゼ・イルと呼ばれた銀狼は顔を上げた。ふいにその蒼い瞳に怒りが生じる。
「しかし彼の人間の身勝手さ、私めの毛についた血を舐めるのも不快なほどでございます。知を持たざる下卑た魔獣まで統率せよなどと、同等の知を持つ人間すら結束できぬ者がよくもぬけぬけと戯言をッ」
「だが、我が目から逃れ、勝手な行動をする狡猾な輩がいることは事実。それに言い訳は効かぬ」
 魔王は鋭い爪の生えた両手を組み、虚空を睨みつける。
「……そして人同士の争いの発端を、居もしない魔族が原因と偽る人間がいることも真実。ゼ・イルの言葉もまたしかり。我にも出来ぬことがあることを、人という種族は知ろうともせぬ。――今我らに必要なのは、互いを理解するための話し合いだというのに」
 ゼ・イルは痛ましげに、微かな煙をあげて再生を続ける魔王の左腕を見つめた。
「だからといって、わざわざそのような傷を受けることはございません、わが王よ」
「なに、一太刀浴びれば話をする隙が生じると思ったのだがな。……やはり種族が違えば流儀も違うとみえる。だからこそ、我はお前を人の世に送り込むことにしたのだ」
 その言葉に、ゼ・イルは姿勢を正した。己の片腕とも呼べる賢獣に、魔王は短く問いを与える。
「成し得たか?」
「はい。人の世の知、至急に習得してまいりました」
 真っ直ぐに己を見つめるその瞳に、魔王は僅かに目と口を歪めて笑みを浮かべた。
「ならば、軽く披露してみろ」
「では、王が人の世でどのように呼ばれるのか、お話しとうございます」
「……ほう。魔王、以外にあるというのか?」
「はい。魔王ということは伏せて特徴のみを述べたところ、違う名称が返ってまいりました」
 広く殺風景な空間に、ゼ・イルの声が朗々と響く。魔王は玉座に肘を置き、組んだ手の上に顔を乗せた。
「して、なんと?」
「ひきこもり、と」
 沈黙が部屋を支配した。
 顔をのせたまま瞠目した魔王は、ゆっくりと目を開き、鋭き牙を動かして言葉を紡ぐ。
「――初めて耳にする」
「同意でございます。しかも『ひきこもり』はより熟練することにより、『となりのジョン』という進化を遂げるそうで」
「我はまだ甘い、ということか……」
 呟き、魔王は沈黙によって先を促した。  ゼ・イルは、己が主君に未知の知を披露する喜びを押し隠し、淡々と話を続ける。
「一定の場所に留まり続け、外に出なければ『ひきこもり』と呼ばれる資格はあるそうです。……しかし『となりのジョン』と呼ばれるための最大の条件。それは、親のスネを齧り続けること、だそうです」
「親のスネ、だと?」
「はい。他には何もせず、何も感じずに齧り続けること。そして親が死ねば、今度は他者のスネを齧る。それこそが『となりのジョン』と呼ばれる条件でございます」
 魔王の脳裏に、足を破損し激痛で喘ぐ人の山が浮かぶ。その横で血に染まりながら人の足を食い破り続ける、生物。
「邪神か」
「おそらく、そのような意味なのでしょう。情報を漏らした人間も、『あの野郎に比べたら、ひきこもりなんて実害はねぇしカワイイもんだ』……と、言っておりました」
 魔王は組んだ手を離し、角の付け根に触れてニ、三度撫でた。もう片方の手で顎を支え、思案するように瞳を細め遠くを見やる。
「――そうか。もしや、我もスネを齧り尽くす『となりのジョン』だと思われている可能性もあるな。我はただのひきこもりだと教える必要がある。……有益な情報だったぞ、ゼ・イル」
「光栄なお言葉。わが身、喜びに包まれております」
 ゼ・イルは恭しく頭を垂れた。
 魔王は肘をついたまま頷き、厳かに言を発する。
「人の世の知、確かに得たことは理解した。ではゼ・イルよ、我が下した最重要命令の返答を命ずる」
「はい。《人間との対話を実現するために必要な策》、潜入の際に見出してまいりました。――それは、『料理』でございます」
 魔王の眉間に皺が寄った。
「りょうり……? 響きは、猟奇に似ているな」
「なんでも『同じカマのメシを食う』ために必要な行為だそうでして、いろいろと手順があるようです」
「鎌……か。メシ、という言葉は分からぬが、人という種族は鎌を食うのか。我らですら体内に入れれば害になる物質だというに。……少々、侮っていたな」
 地を擦る低音に、わずかに感嘆の意が混じる。ゼ・イルはややムッとした表情を一瞬浮かべたが、すぐに打ち消し言葉を続けた。
「中でも『カレー』が良いとのこと。深く理解すること叶いませんでしたが、それは『おれのだいこうぶつ』だそうです」
「フム……華麗、か。人が好みそうな名だ。……して、それはどのような物なのだ? オレノ大鉱物、ということは、その鉱物を使い鎌を作れ、ということか?」
「いえ、ところが『カレー』に必要な物に、鎌は含まれていないのです。そして『料理』とは、自らの手で行なわなくては意味がないそうです。ゆえに、王自らの手を煩わせてしまうことに」
「よい」
 断ち切るかのような断言。ゼ・イルは一礼し、その姿は再び蒼い光に包まれた。光の粒子は飽和するように膨れ、天へと昇り、徐々に人の形を成していく。
 やがて光は消え、ゼ・イルは銀の髪を持つ人間の姿へと変化した。無駄なく鍛えられた体躯を黒いローブで包み、理知的な蒼い瞳を真っ直ぐに魔王へと向ける。
 人の世から見れば、魔性の美しさを持つ青年。しかし彼の賢獣はそんなことには興味も持たず、片膝を地につけ魔王に頭を垂れた。
「四足では不便ゆえこの姿を取ること、お許し下さい」
 肩から銀の髪が流れて落ちる。
 黒のローブという物理的な闇と、魔王という存在から発する闇。そのどちらも薄暗闇には溶け込まず、逆にその存在を確固たるものにしていた。
 魔王が、大地を軋ませながら、ゆっくりと玉座から立ち上がる。その左腕はすでに再生を終えていた。
「――ゼ・イル。我が成すべき事を言え」
「まずは、これを」
 軽く掲げた右手。その手の先の空間が歪み、羽毛のような白い布が現れる。
「それは何だ」
「『エプロン』でございます。寄って来た人間が押し付けてきた物ですが……。これを身に纏うことが、『料理』の始まりの合図だとか」
 過剰なまでフリルで装飾された純白のエプロンをゼ・イルは両手で掲げ持ち、恭しく献上した。
「色黒の子にはこの色が似合う、とのたまっておりました」
「確かに我は黒い」
 闇を纏い、自身も黒い毛に覆われた体を見下ろし、魔王は興味深げに頷いた。長く伸びた爪に引っかからないようにエプロンを摘み、しげしげと眺める。
「人という種族は、儀式的な事を好むのだな。……しかしこのように小さき物、どうやって纏うべきか」
「身につければ良いとのこと。どのような場所でも構わないのではないでしょうか?」
「フム……」
 魔王はしばし思案し、そのエプロンを己の右角へと巻きつけた。猛々しい角は純白に包まれ、エプロンの胸元についているピンクのリボンが微風に舞い優雅に揺れる。
 纏う闇とは別の意味で、その姿は異質だった。
「完璧です、わが王よ」
「そうか」
 ゼ・イルは動揺の欠片も見せずに述べ、ふと思いついたように言葉を付け足す。
「そういえば、その『エプロン』を押し付けてきた人間、私めの去り際に、『私のところに来ない? 楽しませてあげるわよ』と言ってきました」
「行ったのか」
 魔王の問いかけに、ゼ・イルは美麗な顔が一瞬、不愉快そうに歪んだ。
「いえ。その後すぐに『嘘よ。あなたみたいに綺麗な男には声をかけるのは礼儀だからね』と言って去りました。……人間の行動は、私めには理解不能でございます」
 ゼ・イルにとってこの姿は人の世に紛れる擬態でしかなく、死骸に群がる獣のように近寄ってくる人間は不快な存在でしかなかった。
 不機嫌さを隠し切れないぜ・イルの姿を見下ろし、魔王はくつくつと喉の奥を振るわせる。
「そう怒るな。人の世の礼儀を一つ理解出来たではないか」
「ですが魔族であるわれらに、人間の美醜などわからないではありませんか」
「お前は『綺麗』なのだろう? ならば少なくとも、お前に似た形をしていれば綺麗、ということだ」
 ゼ・イルは諦めたように息を吐き、表情を引き締めた。
「――それでは、『カレー』製作に移りたいと思います」
 魔王の瞳が薄く細まる。覗く瞳の赤色が、期待するように濃度を増した。
「最初に必要な材料は、『たまねぎ』でございます」
「たまねぎ……。多魔の木と関係があるのか」
「はい。おそらく多魔の木の根、多魔根木のことでしょう。そう思い、私めが帰還の途中で確保してまいりました」
 再び掲げられた手の中に、黒炭のような漆黒の木の根が現れる。多魔の木とは、魔王の住まう岩山の周囲に生えている樹木。膨大な魔力に染まり、人間にとって有毒性の花粉を撒き散らす特性がある。
 当然、樹木本体も人体には有害だった。
「これを『いためる』ことが最初の作業でございます」
「いためる?」
 純白エプロンが魔王の動きに合わせてふわりと揺れる。
「――それは、痛めつける、と同義か?」
「おそらくは」
 その言葉に、魔王は多魔根木を受け取り拳を叩き付けた。瞬時に哀れな根木は木っ端微塵に弾ける。黄色い内部をばら撒き、魔王の足元へパラパラと木片が落下した。魔王は僅かに素早く粉砕した木から視線を逸らす。
「……やわい、な」
「『狐色になるまで』が『いためる』条件です。黄色がよく映えているので、おそらく問題はないかと」
「そうか。ならばよい」
 魔王の口角が上がった。
 ゼ・イルは魔王の足元に落ちた多魔根木の破片をかき集め、ローブについた物を払ってから冷静に説明を続ける。
「次は『じゃがいも』と『にんじん』を『たまねぎ』と一緒に『いためる』そうです」
「じゃがいも、そしてにんじん、か……。文字を当てはめるならば、邪悪な害ある藻。そして人間の刃、となるな」
「はい。そう仰られると思い、邪害藻の方は用意しております。……が、人刃の確保が……」
「人の持っていた刃でよいのなら、先の人間が持っていた剣を使えばよかろう」
 魔王は重厚感のある玉座の後ろへ向かい、無造作に置いてあった剣の残骸から一つの剣を取り上げた。
 わずかに血のついたそれは、つい数時間前に己の左腕を傷つけた代物。魔王は特に興味もなさそうに一瞥し、多魔根木の破片の山へと放り投げた。
 ゼ・イルも、紫色の汁を滲ませるくすんだ緑の邪害藻を同じ場所へと置いて、一歩二歩と、場から引く。
「王、お願いします」
 言われ、魔王は黒ずんだ手のひらを三種の材料へ向けてかざした。豪腕に血管が浮き上がり、開いた手を――握る。
 キィン! と高い音が響き、人刃は邪害藻もろとも細かく砕かれ、残骸と化した。
「どうだ?」
「充分でございます。では、次は『ルー』で煮詰める準備を」
 闇の中でなお輝く銀の髪を揺らし、ゼ・イルは唯一の出入り口である扉へと体を向けた。息を吸い、人の姿とは不釣合いな遠吠えを響かせる。
 長い遠吠えが残滓を残して終わるとほぼ同時に、扉の奥で重いものが移動する振動が近づいてきた。やがて重厚な扉が軋みを上げながら開き、一匹の巨大な黒竜が登場する。
「モッテ、キタ」
「ご苦労さまです。そこに置いて下さい」
 黒竜は両手に抱えた、人が三人は余裕で入る大きさの器を持ちにくそうに運び、残骸の前に置いた。
「王。この器に、先程の材料を入れます」
「任せる」
 包む蒼い光。ゼ・イルの魔力によって、残骸は一粒も零されることなく器に収まった。
「ラ・クブ。手はず通りに」
「マカセロ」
 黒竜は長い首を仰け反らせ、その身と同じ色の漆黒の器にブレスを吹き付ける。激しく立ち上がる白い蒸気。中に収まっていた素材――主に人刃から、絶叫のような音が放たれ部屋中に木霊した。
「……酸のブレスが『るう』、と?」
 呟かれた言葉に、ル・ゼブは頭を垂れて否定する。
「いいえ。素材は『やわらかくなるまで煮る』ことが必要だそうです。人刃をやわらかくするには、ラ・クブのブレスが最適だと判断いたしました」
「なるほどな」
 器の縁ギリギリまで酸の液体が溜まった内部は、シュウシュウと溶解する音を立てながら紫色の煙を吐き出していた。材料がどうなっているのか目視することは難しい。ゴポリ、と音を立て緑色の煙が一瞬だけ立ちあがる。
 そんな『カレー』に疑問を抱くこともなく、ゼ・イルは右手を掲げ最後の材料を呼び出した。
 広がる蒼の光。現れたのは、黄色の紙に包まれた四角い固形状の物体。
「王よ。これが最後の仕上げ、『ルー』でございます。これを器に入れ、火にかければ『カレー』の完成です」
 言いながら紙を開き、こげ茶色をした中身を取り出す。
 ――それは、正真正銘のカレールーだった。
 正しいはずのその存在は、異様な『料理』の光景に硬直してしまったかのように黒ずんで見えた。意志が存在していたらならば、即座に蒸発してこの場から消えていただろう。
 ゼ・イルは容赦なく、そんなカレールーを放り投げる。
 その瞬間、酸化した不快な臭いに混じりスパイスの効いた香りが部屋中を包み込む。一緒に投げられた紙が焼け焦げる臭いも絡み合い、それは壮絶なほどに食欲をそそらない香りと化していた。
 しかしそれは人間限定の感覚であり、魔族にはわからない。
 ラ・クブだけは、未知の香りに不思議そうに器を覗き込み首をかしげていた。
「さあ、王。どうぞ火を」
「わかった」
 魔王は聞き取れない言語で呪文を唱える。ゆるりと人差し指が器を指し、直後、器の下から天井を焦がす程の炎が燃え上がる。
 熱風で純白エプロンが恥らうようにはためいた。
「この程度でよかろう」
 魔王の言葉に一度天井を舐めた炎は勢いをゆるめ、器を包む程度の高さで固定される。

「――完成です」

 炎を見つめ、ほっとしたように口調を和らげてゼ・イルは宣言した。その言葉に、魔王は再びゆっくりと玉座に腰を下ろす。ラ・クブは役目は終えたとばかりに踵を返し、一礼だけして去っていった。
「大した内容ではなかったな」
 大きく息を吐き出し、魔王は玉座に背をつけた。
「お疲れでしょう。王よ、どうかお休み下さい。火の番は私めがしております」
「いや、よい。大した事はしておらぬ。それに対話のための準備は出来たのだ。やるべき事はこの火山程にある。……そこで、ゼ・イル。お前に二つ、命を下す」
「なんなりと。わが王よ」
「まずは旅の疲れを癒せ。そしてその後――」
 命を受け入れ、銀狼の姿に戻ったぜ・イルは一礼して姿を消した。後に残るのは、火のはぜる音と素材が溶解する音だけの、静寂。
「フ……。人が来るのを楽しみに思うのは、久方ぶりだな」
 ぐつぐつと煮えたぎる『カレー』を見つめ、魔王はひっそりと頬を緩ませた。

     *  *  *

 それから幾らかの時が経つ頃。
 魔王は閉ざしていた瞼を上げ、乾いた赤瞳を曝け出した。
 同時に岩石を擦る音を立て、重い扉がゆっくりと開かれる。
「――来たか」
 半分ほど開いた扉から、三つの人影が飛び込んできた。
「魔王ッ! 正義の名において、貴様を成敗する!」
 黄金の鎧を身に着けた茶色の髪を持つ青年が叫ぶ。手には大振りの剣が握られ、その切っ先は魔王に向けられていた。
 魔王は動じずに、その姿を見下ろす。
「まあ、待て。我は汝らを待っていたのだ」
 目を細め、口を歪めて魔王は両手を広げた。青年の後ろに控える白を基調としたローブを着た女は、魔王の浮かべた友好的なはずの凶悪な笑みに、びくりと体を震わせる。
 その横にいた軽装でバンダナを巻いた青年が、元から不愉快そうな顔を更に嫌そうにしかめた。
「……なんか、すっげぇ臭くねぇか?」
「ホウ、気づいたか。そう、我はこの日のため、然るべき準備を整えておいたのだ」
「準備だと? 貴様、一体何をたくらんでいる!?」
 剣士は油断なく剣を突き付けたまま問いを発する。
「宴、だ」
 魔王はつい、と玉座の横へと移動させた器に目をやる。魔力の炎は衰えることを知らず、蒸発とブレス追加を繰り返した『カレー』は、だいぶ薄まった紫の煙を吐き出していた。薄めすぎたせいか、カレールーの食材としての最後の意地か、もはやカレーの香りはまったくしない。
「! あれは……」
 女が目を見開き、小さく呪文を唱え始める。
 魔王は意気揚々ともてなしの意を込めて両手を上げた。

「さあ、食らうがよい!」
「くらってたまるかッ!」

 魔王の力によって器が浮き中身が剣士達へ向かってぶちまけられる。同時に剣士とシーフが女を掴んで飛び退き、飛沫は女の障壁魔法によって防がれた。
 『カレー』に触れた地面からあがる激しい蒸発音と白煙。焼け焦げる不快な臭いが部屋中に広がった。
「お二人とも大丈夫ですか!」
「ああ。ミレイのおかげだ」
「あっぶねぇー。おいおい、これ多魔の木が入ってねぇか? ミレイ、一応毒避け呪文唱えとけ」
「わかりました」
 女の呪文で淡い光に包まれる人間。餌は地面に置いて食べる習慣の魔王はその行為を見届け、それでも『カレー』を食べる様子がない人間達に眉をひそめた。
「……なぜ食らわぬのだ。それは汝らのために用意した物、じっくりと味わうがよい」
「ふざけるな! なんて卑劣な手をッ……!」
 剣士は怒りに瞳を燃やし、遥か頭上に位置する魔王の顔を睨みつける。

 その目に、信じがたい物が写った。

「な、に……? その角に絡まっているのは、……服?」
 驚愕に見開かれた目。写るのは、魔王の角に巻きつけられたままの、少し黄ばんだ純白エプロン。
 その意味を自己解釈し、剣士は怒りに満ちた声で吠えた。
「貴様ッ、その服を着ていた女性をどうしたんだッ!」
「知らんな」
「答えろッ!」
「知らぬ」
 悠然と玉座に座り、魔王は正直に答える。
 その表情は人の目から見れば冷酷なものだったが、魔王自身は唐突で理解不能な怒りに対し、内心困惑していた。
 渾身の出来であるはずの『カレー』。もしや何か至らぬ所があったのだろうか、という疑念がようやく生まれる。
 会話の糸口を見つけようと目線だけで周囲を見回し、ふと女の姿が目に入った。
 剣士の後ろで油断なく魔王を見つめている女。彼女の髪は――ゼ・イルと同じ、薄闇でも輝く銀色、だった。
 魔王は気付く。そうか、我に欠けていたのは『礼儀』か、と。
「そこの女」
 突然魔王に呼ばれ、女の肩がびくりと揺れる。魔王は地を這うような掠れた低音で言葉を発した。

「――我と共に来るか? 楽しませてやるぞ?」
「え……」

 青ざめる女。赤くなる剣士。思わず吹き出すシーフ。
「き、貴様、何をッ!」
「『綺麗』な人間に対する『礼儀』だ。……そうだな、言い遅れた事は詫びるとしよう」
「ふ、ふっふっ、ふざけるなああッ! この外道が! そうやって女性を拉致した挙句、見せ付けるように服を……! 貴様は、貴様だけは許さんッ!」
 飛び掛ろうとする剣士を、シーフが冷静に掴んで止めた。
「コラ待てルイファ。落ち着けよ、真正面から行ったって魔障壁で弾かれるだけだぞ。そんなカッカしてたら太刀筋だって丸分かりだっての」
 そう言って剣士の肩をなだめるように数度叩く。
 瞬間。剣士の腰の横で光が瞬き、
「っ」
 魔王の足にナイフが突き刺さった。微かに息を呑んだ魔王の反応に、シーフが得意げな笑みを浮かべる。
「――こうやって、不意打ちしなきゃな」
 魔王は視線を更に落とし、右足に浅く突き刺さったナイフを引き抜いた。黒ずんだ血が滲み、すぐに再生するべく煙があがりだす。
「フム。……致命傷を与える場所ではなく、あえてスネを狙うとは……」
「へっ。そうそう上手くいく訳がないってね。確実に打撃を与えられる場所を狙った方が」

「貴様、『となりのジョン』だな?」

 シーフの言葉を遮り、魔王は確信を持って男を睨んだ。
「は……?」
 シーフは困惑の表情を浮かべ硬直する。逆に、剣士と女の方は動揺した様子でシーフを見た。
「ジョン! お前、となりって何のことだ!?」
「いや知らねぇよ! となりって人間住めねぇだろこんなとこ!」
 ――そう。
 よりによって、シーフの名前はジョンだった。
「じゃあなんで魔王に名前を知られているんだ!」
「知らねぇっつの!」
「隠しても無駄だ。人に飽き足らず、今度は魔族のスネまで狙うとはな。――貴様の望みはなんだ? その破壊の行く先に何を見出す?」
 魔王は圧倒的な存在感を持って『となりのジョン』に問う。潰されるような威圧感。しかし、それにすら気づかないかのように、剣士は愕然とした表情でシーフを凝視している。
「お前、『人に飽き足らず』って……」
「バカ、真に受けんな! そんなんだからお前は単細胞って言われるんだよ!」
「た、単細胞とはなんだ! じゃあ、お前は名前を知られている理由を説明できるのか!?」
「いいか、相手は魔王だぞ? 虚言で俺達のチームワークを乱す作戦だ。そうに違いない」
 シーフの言葉に、剣士の目から迷いが消えようとした。しかし魔王はゆるゆると首を振り、それを遮る。
「愚かな。我は虚言など吐かぬ」
 そして全霊を込め、威厳を持ちて声を張り上げて、言う。
「……そう、我はただ純粋な『ひきこもり』ぞ!」
 部屋の空気を振るわせる、高らかな宣言。

「……アホ?」

 シーフの口から、無意識に言葉が零れ落ちた。
 一方、一片の躊躇いもない魔王の言葉に、剣士は鋭い視線をシーフに向ける。
「ジョン! 違うと言っているぞ!」
「って、どうしてお前は頭に血が上ると話をまともに聞けないんだよ! 作戦だって言ってるだろ!」
「――正体を隠す事など無意味だ、『となりのジョン』よ」
「うっせぇ! 俺は魔王と収穫祭で意地になって飲み比べしたり村長の話の長さについて語り合った覚えはねぇ! もういい、ミレイ! 援護を頼む!」
「あ、は、はいっ」
 完全に怒り状態になったシーフは魔王に向かって走り出す。困惑して成り行きを見守っていた女も、我に返ったように呪文を唱えだした。
「……やはり邪神か」
 魔王は無造作に左手を上げ、一言呪を唱える。
「ぐあっ!」
 鼓膜を直接叩くような膨張音。悲鳴。鈍い落下音。
 魔王の衝撃波によって、シーフは地面に激しく叩きつけられた。一度バウンドした体は投げ出されたおもちゃのように転がり、止まる。
「ジョンさん!」
「ジョン! しっかりしろ!」
 残る二人は慌ててシーフに駆け寄った。シーフはよろよろとした動きで上半身を起こし頭を振る。
「ってぇ……」
「ジョン! ああジョン、すまなかった。俺がどうにかしていた」
「……やっとわかったのかよ。ったく」
「ああ、お前は邪神なんかじゃない。人間だ」
「そこかよ。……いや、もういい。立てよルイファ」
 頷き、剣士は立ち上がると、強い眼差しで剣を構えた。
「――そして俺達には、魔王を倒し、平和な世を作り出すという使命がある!」
「ま、そういうこった。褒美も入るしな」
「はい。がんばりましょう」
 三人の瞳に、同じ意思の強さが宿る。その光景を何度も目にしてきた魔王は一度、見向きもされない『カレー』に目をやってから、どこか諦めを滲ませながら最後の問いかけを口にした。
「――汝らは、我と話し合う気はないのだな?」
「そのような必要などない!」
 剣士の返答に魔王は深く体内の空気を吐き出し、言った。

「ならば、来るがよい」




 薄暗闇の中、魔王はゆるゆると体内の空気を吐き出し、疲れた口調で呟いた。
「――難儀なモノだ」
 沈黙が部屋を支配すると同時に魔王の眼前に蒼い光が生まれ、ゼ・イルが静かに深く頭を垂れる。
「王、申し訳ありません。私めが『オレノ大鉱物』を見つけ出し、鎌を作り上げてさえいれば、このような事には」
「お前のせいではあるまい、ゼ・イルよ。今回の件は、そこの『となりのジョン』の存在こそが、一番の敗因だろう」
 魔王の言葉に、ゼ・イルは言いずらそうに視線を逸らして重大な真実を告げた。
「……王よ。その者は『となりのジョン』ではありません」
「なに?」
 ピクリと魔王の瞼が震える。
 その反応に、尻尾を伏せながらゼ・イルは言った。
「その証言をした人間の話では、『となりのジョン』は灰色の髪であるそうで」
 地面に倒れ込みぐったりと昏倒しているシーフ。そのバンダナは戦いで外れ、曝け出された髪の色は、――目が覚めるような金色、だった。
 魔王は無言でその姿を眺める。
 永遠とも感じる時間と静寂。やがて魔王は静かに呟いた。
「…………悪い事をしたな」
「いえ。私めの情報伝達能力の欠如が原因です。どうぞ、王はお気になさらないで下さいませ」
 ゼ・イルは地に付くほど深く頭を垂れた。
「――実を申しますと『オレノ大鉱物』の探索中、『カレー』にまつわる重大な情報を入手いたしました。……王が作りし『カレー』には、重要な素材が抜けていたのです。その情報を届ける前に、このような事態に……」
 言葉を切り、ゼ・イルは覚悟を決めた声で言った。
「わが王よ、どうぞ私めをお裁き下さい」
 じっと頭を垂れたまま懺悔を終える賢獣。
 その姿に、魔王は固く結んでいた口を開き、ゆるやかに表情を緩めた。
「よい。許す。その情報を次回に生かせば良い事だ」
 ゼ・イルは蒼い瞳を見開いて顔を跳ね上げた。数秒その状態で硬直した後、微かに震えながら頭を垂れる。
「……ありがたき幸せ。王のご慈悲、至上の喜びを持って受け取らせていただきます」
「ウム。……して、その素材とは何だ?」
「はい。『愛情』でございます」
 沈黙が落ちる。
 魔王はゆっくりと手を組み、顎を乗せた。
「――我の、苦手分野だ。そうか、どちらにせよ『カレー』は失敗するのが必然だった、というわけか……」
「……王」
「だからその者達は、あのように激高しておったのだな」
「……王。その者達は、どのようになさいますか?」
 落胆してみえる魔王に、ゼ・イルは話を切り替えるように尋ねた。魔王は地面に倒れている三人を一瞥し、答える。
「手加減はしておいた。いつもの通り、人の世に近い森に」
「承りました」
 一礼し、あちこち傷だらけになっている人間を運ぼうとした背に、魔王の低い静かな声が掛かる。

「その後は――次の『りょうり』に挑戦するぞ」

 ゼ・イルは、微笑をもってその言葉に答えた。
「……はい。次は必ずや、王のお役に立ってみせます」
「ウム。……待っておれ、人間達よ。次こそは必ずや、我が『りょうり』を食らわせてやろうぞ!」
 勇ましく宣言する魔王の頭上で、点々と返り血を浴びた純白エプロンがびっくりしたように上下に揺れていた。




 ――人と魔族が和議を結ぶのは、これから数十年後のことである。そしてその日に出された魔王の手料理は絶品だった、と後の歴史書は語っている。
 その本の挿絵には、煤けたエプロンを角に巻きつけた魔王の姿があった。
 解説には流暢な文字でこう書かれている。

『共存の道を模索し、人を理解することに努め、オシャレ心をも身につけた奇跡の魔王、ここに――』

 人間と魔族。相互の完璧な理解までは、まだちょっと遠い。

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あとがき