受験と家族と殺し屋と
《前編》

 ぱちっ。
 情けないくらい軽い音をたててシャーペンの芯が折れた。
 つかの間の自由を堪能して机に激突、息絶える芯。それを見ていた寝巻きの上にもんぺを羽織った青年――景斗(けいと)は、ひくりと頬の筋肉を痙攣させた。
 こんな深夜に、この所業。そうか、そんなに俺の勉学を妨害したいか筆記用具め。
 手の中にいたシャーペンをノートの上に転がし、嫌味をこめて鼻で笑う。
 どうだ筆記用具界最大の罰、放置の刑だ。苦しいだろざまあみろ! はーはっはっはっ!
「……って、なにやってんだ俺」
 景斗はうんざりと肩をおとし、使用者への労わりを微塵も感じさせない堅い勉強イスに寄りかかる。
 この堅さは嫌がらせの域だと真剣に思った。
「そもそも勉強机のイスってのは、長時間使用を前提にして作られるはずだよな? それなのに30分座っただけでケツが痛くなるなんておかしいだろ。欠陥品だぜ。ちくしょう、いつか訴えてやる」
 ぶつぶつとやつあたりで文句を言いながら体をひねってベットの上にある置時計を見ると、深夜1時をかるく過ぎていた。
 いつものこと。だけどいつものことなのが腹立たしい。振り返って塾の宿題をやる気がドンドンうせていく。
「……あぁああっ! かったりぃ!」
 ストレスとうっぷんに耐えられず喚いてみても、何も変わらない。
 むしろ文句を言われるだけだ。志望大学のことで陰険な仲になっている両親と、これ以上無駄なやり取りをしたくはない。
 景斗は不満をむりやり押さえて机に向きなおした。中断していた古典の宿題ノートを脇によせて、日本史のプリントを広げる。
 しょんぼりして見えるシャーペンの刑も特別に解いてやった。
 せめて得意な科目で気分転換させやがれ! と、半ばキレぎみで問題に目を通しはじめる。
 と、なんだか部屋の温度が下がった気がした。
「ん?」
 暖房が切れたのかと見上げたが、運転中の赤いランプは確かに点いている。だから、まあ、外の温度が下がったんだろうと納得して、再び穴埋め問題に没頭しようとすればできたはずだ。

 ヒーターの下の壁に、半透明な男の首が生えていなければ。

「……」
「……」
 景斗は全ての動きを停止させて首を凝視した。首の方は困ったようにおろおろと視線を泳がせていたが、やがて恐る恐るといった感じで口を開く。
「あ、あの……私、殺し屋……なん、です、かねぇ?」
 その言葉に、景斗は瞬時に計算、答えを割り出す。
「なんだ夢か。ああ夢だな。決定。寝る」
 そのままベットにダイビング。意識を強制的にブラックアウトさせた。
 さようなら悪夢。こんにちは幸せな夢。
 答え。人間の最高の現実逃避は寝ることである。




 板垣退助のかわりに殺し屋に追われる夢を見て、景斗はうなされながら目を覚ました。見事に夜の宿題と悪夢の影響だな、と寝ぼけた頭で考えて起き上がる。
「あ……おはようございます」
 悪夢はまだ覚めていないようだ。
 居心地悪そうに部屋の隅に突っ立って朝の挨拶をする元・首だけ男に対し、景斗は迷わず再びベットに潜り込む。
「え? あ、あの……朝ですから、二度寝は良くないですよ?」
「しっかし、まさか俺もこれだけストレスが溜まっていたとは思わなかったな。つまり、これはあれか? 受験から逃れたいという願望が殺し屋という姿に? それとも、こんなに辛いならいっそ死にたいとでも思ってたのか? ――まあ、とにかく寝れば治るだろ。明日は日曜だけど、大事を取って今日は学校も塾も休んで……」
「い、いえ! 私は幻覚ではないですから!」
 現実逃避その2・自分の世界に入るを妨害された景斗は、だるそうに頭を動かして、体のパーツが全部揃っている自称殺し屋(やっぱり半透明)を睨みつけた。
「じゃあなんだよ」
「え、ええ。ですから、殺し屋……だと思うんです。……たぶん」
 まったく自信なさげに答える自称殺し屋を、景斗は改めてまじまじと見つめてみる。
 おやじだ。七三わけに失敗して九一わけになっている髪。人生に疲れているような弱々しい顔。最寄の駅に行けば、こんな男がアリの行列のようにわんさかといるだろう。着ている物も、典型的な灰色のサラリースーツ。
 見た目で言えば、そう、上司にいびられやすい胃痛持ちの30代。
「……俺の中の殺し屋のイメージって、こんなんなのか?」
「ですから、私は君の想像ではなくてですね、」
「景斗!」
 まだ必死に反論しようとする自称殺し屋の声をさえぎって、母親の声がドアの向こう側から響く。景斗が何か思うより先にドアが乱暴に開け放たれた。
「遅れるわよ! いい加減に起き……」
 怒気を含んだ声が不自然に止まる。その目は自称殺し屋に釘付けだ。そのことに景斗はいささか驚いた。
 お袋にも見えるのかこいつ!
「あ、その……すいません。失礼させていただいています」
 しかも厄介なことに、自称殺し屋は母親に恐縮した態度で挨拶をしていた。無意味に律儀だ。
 あわてて景斗が間に入って隠そうとするが、時すでに遅く。
「きょえぁぁああぁあああぁああっ!!」
 超音波よりかん高い悲鳴が、騒音公害としてご近所に響きまくっていた。母親は叫ぶだけ叫んであっさりと気絶する。
「お、おいお袋! そんな発狂した祈祷師みたいな悲鳴あげて気絶すんな! 隣りのオバタリアンの格好のえじきだぞ!」
 大音量に耳鳴りを起こしつつ揺すってみるが、そう簡単に起きるわけもない。そうこうしている内に、下の階からあわただしい足音と声が聞こえてくる。
「かあちゃん! どうしたの!?」
 その声に景斗は舌打ちすると、おろおろとうろたえている自称殺し屋に向かって、払い除けるように手を鋭く横に振った。
「おいお前、なんでもいいから今だけ出て行けっ!」
「え、で、出て行けって……」
「今だけっつってんだろ! 壁くらい通り抜けられるんだよな? ほら外行け、外!」
 景斗の勢いに押されるように、自称殺し屋は音もなく壁際に移動して、吸い込まれるようにすり抜けて行った。間髪入れず小さな少年が階段を上りきり走り寄ってくる。弟の翔太だ。ちなみに小2。
「にいちゃん、かあちゃんどうしたの!?」
「あーうっせぇな。なんでもねぇよ」
 母親が倒れていることに驚いたのか、瞳を限界まで見開く翔太に景斗は面倒そうに答えた。ついつい声が不愉快をあらわに低くなる。
「でもかあちゃん」
「いいから学校行けっ!」
 強い語調に翔太はびくりと体を震わせた。幼い瞳を潤ませ、堪えるように下唇を噛みしめる。
「あのな……」
 半泣きで睨みつけてくる自分の胸にも満たない弟に、景斗はうんざりとため息をついた。太い眉をしかめながら、なるべく抑えた声で言う。
「いいか。そうだな、ごっきーが出たんだ。しかもデカイ、超ド級のやつ。そんでお袋は絶叫および気絶。……俺が始末するから早く行け、いいな?」
 有無を言わせない冷たい口調に、翔太は何も言わずに顔をそむけて走って行った。景斗も無言できびすを返し、気絶した母親をほおっておいて、クローゼットから制服を取り出す。
 紺色のありふれたブレザーを着終わったとき、外に面した壁の向こうから遠慮がちな声が聞こえた。
「あの〜……もう、よろしいでしょうか……?」
「できればそのまま消えてもらいたいんだけどな……もういい。入れよ好きなだけ」
 自称殺し屋は、出て行ったときと同じように音もなく入ってきた。倒れっぱなしの景斗の母親に「ひあっ」と情けない声を小さく漏らし、落ち着きなく視線をさまよわせる。
 こんな気弱な男が殺し屋のわけないよな、と景斗は内心ため息をついた。ついでに、霊体なんだからせめて死神とか名乗っとけとヤケクソぎみに思う。
「あ、あの、すいません。いろいろとご迷惑を……さっきの声の子にも、嫌な思いをさせてしまったみたいで……」
「見てたのか?」
「い、いえ。姿を見られたら良くないのだろうと思いましたので、声だけです。すいません」
 ことあるごとに謝る日本人気質の自称殺し屋に、今度は表に出してわざとらしくため息をついてやる。
「いや、翔太のことは別にいいさ。どーせあいつは俺みたいに勉強しなくても、殺し屋だとかいう変な奴につきまとわれなくてもいい、お気楽な身分なんだからな」
「あうぅ! す、すいません!」
 見事に眉を八の字にさせて頭を下げてくる自称殺し屋。
 思わず景斗は苦笑を浮かべる。
「まあ、翔太とは半年くらい前から仲悪いんだし。ほっとけば俺の部屋から没収されたゲームとかマンガで勝手に遊んで、勝手に機嫌も直すだろ。……そんなことより、早く家を出るぞ」
「え、どこか行くんですか?」
「とにかく、こうなったら話がしたいんだけどな。ここで話してたら隣のオバタリアンの今日の話題が『ちょっと聞いてよ奥さん。うちの隣りから祈祷師の発狂音が聞こえるの。しかも二度も。何がとり憑いてるのかしらね、ああ怖い。あなたもあそこの家には気をつけて、というか付き合いを考えた方がいいわよオホホホホ』になるんだよ」
 げんなりした顔で、さらにオバタリアンのセリフは棒読みで言う景斗。自称殺し屋はとまどいながらも、なんとか言葉をひねりだす。
「……た、大変なんですね?」
「だろ? だからとりあえず学校行くぞ」
 学校指定の黒いダッフルコートを着込み、廊下に転がっている母親を数秒考えてから部屋の中に引っぱり入れて、景斗は玄関に向かった。




「……最悪、だっ……」
 十二月の寒さがしみる空の下、彼は激しく自分の行動を後悔していた。息を切らせ、校門の学校名が刻まれた壁にもたれかかる。大して長くない前髪が汗をかいた額に貼りつき、よりいっそう景斗を不愉快にさせた。
「ちく、しょう、よく考えれば……わかる、こと、だったよな」
 乱れる息のまま景斗は悪態をつく。そのたびに息に白く色がつき、霧散していった。寒さの証明も、汗だくの彼にはあまり関係ない。
「あああああのっ、すいませんすいません本当にっ!」
 ぐったりしている景斗の横で、自称殺し屋が恐縮しきって何度も頭を下げていた。
 この自称殺し屋、どうやら全ての人間に見えるらしい。
 朝のゴミ捨てに出ていたおばさんは悲鳴をあげ、出勤中のサラリーマンが顔を引きつらせて動きを止める。犬は吠え、猫はシャーシャー威嚇する。
 注目のまとにも程があった。
 とにかくあせった景斗は全力でその場から逃げ、かろうじてついて来た自称殺し屋を強制的に地面に潜らせ、なんとか学校までたどり着くことができた。
 学校の朝は、10分違うだけで人の数が激しく違うので、無駄に登校時間を短縮した景斗の周りには誰もいない。
「はぁ……もういい。とりあえず、誰もいないうちに教室に行くぞ」
 コートのすそで汗をぬぐい、用務員がいないことを確認して下駄箱に向かう。そのついでに、溜めこんでいた疑問も聞くことにした。
「で、なんであんた俺のところに来たわけ?」
「え? えっと、気付いたら……いたんです。なぜと言われても、その……」
「じゃあ殺し屋ってのは? はっきり言うけど、絶対そんなんじゃないぞ、あんたは。殺気も気迫もなさすぎ」
「そ、そう言われましても……」
 上履きにはきかえてスニーカーを下駄箱に入れる。口を閉ざしてその動作を見ていた自称殺し屋は、やがて視線を落として言った。
「あの、私、自分が誰なのか、どうしてここにいるのか、よく……わからないんです。でも、どうしても消さなきゃいけない人が、いるような気がして……」
「……それはまた、穏やかじゃないな」
「です、よね……。消すってことは、殺すってこと……ですよね? ですから、自分は殺し屋なのかなって、思ったんです。はい」
 教室に向かう階段を上りながら、景斗は嫌な予感がして自称殺し屋を横目で眺めた。
「それで気付いたら俺のところにいたって……まさか、殺したいのは俺じゃないだろうな?」
「い、いえそんな!」
 予想に反して、自称殺し屋は首を激しく横に振る。
「あなたには、その、そんな感じしないと言いますか、少し違うんです。こう、ざわっときませんから。大丈夫です」
「少しってことは、多少は当てはまるってことか?」
「うっ。いえ、その、あの、す、すいませんっ!」
 なぜどもる。
 妙な不安を感じながら、景斗は教室のドアを開けた。
 誰もいない教室が二人を出迎える。
 ……はずだった。
「なかなか笑いどころの難しいネタだな」
 そう言って、窓際の席に座るクラスメートが顔を上げる。
「泉……」
 その瞬間、景斗は呪われているんじゃないかと本気で思った。




 泉笑一(いずみ しょういち)。お笑い部部長――ただし部員一名――で、常に笑いを求める男。
 一言で表現すれば変人。
 ちなみに学期ごとに行なう学年アンケート『将来大物になりそうな人』・『将来路頭に迷いそうな人』でブッちぎりの一位を保持し続けていたりするくせに、『おもしろい人』では気配すらない。
 そんな人物。
 そして景斗は、笑一が苦手だった。
 授業中に当てられるとネタを披露しだすところとか。会話が成り立たないところとか。見た目が無駄に美形なところとか、特に。
 つまり、トータルしてむかつく。
 が、今はそんなこと言っている場合ではなく。こちらを直視した瞳が驚いたように見開かれたことに、景斗はひたすらあわてた。
「い、泉。落ち着け、こいつは、え〜っとなんだ。あんた名前は?」
「え? え、ええ。な、名前……名前、は……こ、殺し屋ですかね?」
「それは違うだろっ!」
 混乱しきっている二人をよそに、笑一は感心したようにうなづいて、にやりと口の端を上げる。
「捨て身のネタか」
「んなわけあるかっっ!」
 怒鳴り、景斗は脱力した。なんだか朝からいろいろありすぎて疲れてきた。
「……お前、この状況を見てなんとも思わないわけ?」
「世の中にはいろいろあるからな。透きとおってでも笑いをとる人間だっているだろう。差別はよくないぞ。むしろ笑え」
「いや、そういう問題じゃなくってだな……」
 半分ぼやきになってきた景斗の言葉を無視して、笑一は目にかかるほどの前髪をうっとうしそうにかきあげながら、さらに続ける。
「それにしてもコロ、それはどうやったんだ? 以前見たときは透けてなかった。家族は心配しないのか? それとも爆笑か?」
「え……?」
「な――っ!」
 その言葉に景斗が反応して、笑一に詰め寄る。
「お前、今なんて言った!?」
 笑一は真顔で自称殺し屋を指さす。
「殺し屋だからコロだ。個人的に気に入っているから、改名は禁止の方向で頼む」
「いやそっちじゃねぇし! お前こいつの正体知ってんのか!」
 不思議そうに首をかしげる笑一に、一通りの事情を説明した。
「なるほど。わかった」
 納得した笑一は、それなら早く教えろと急かす景斗の前に、右手を差し出した。
「携帯を貸してくれ」
「……はぁ?」
「ところでお前、弟はいるか?」
「いるけど……ちょっと待て、意味わかんねぇ」
「年は小学校低学年くらいか?」
「あ、ああ。てか、人の話聞けよ!」
「……そうか。よし、話は繋がった。後は探すだけだ。――さあ携帯を。それと、今日は午後の予定を空けておけ」
「なに言ってんだよお前! だいたい俺は午後から塾が……!」
「熟しすぎると腐るぞ」
「だあぁああっ! 意味わかんねぇえぇえぇえぇ!」
「あ、あの、大丈夫ですか?」
 頭をかかえて絶叫する景斗に、自称殺し屋、改めコロがおろおろと声をかける。が、景斗は眉をつり上げ相手を睨んだ。
「そもそもあんたのせいだろがっ!」
「あう! す、すいませんっ」
「怒るな。つまり、果物が熟しすぎると腐るように、塾しすぎると脳と心が腐って笑いが」
「お前もいちいち説明すんなっ!」
 笑一のしょうもない解説を途中でさえぎり、景斗は本気で泣きたくなってきた。
 だめだ、こいつとまともに会話できるのは……。
「あ、笑一君に景斗君。おはよう……って、うわ! 幽霊!?」
 背後から聞こえてきたのんびりした口調と、実に一般的な反応。
 それが景斗には、呪いをとく天使の声に聞こえた。

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