続・伝説の部活動中!

〜チョコがけするのは命がけ〜


 狭い部室で本から顔を上げれば、蛍光灯の光越しにメガネについた埃が映る。汚れを取ろうとメガネを外し、背に感じる冷たい風に振り返れば、カーテンのないうす汚れた窓がガタガタと鳴いて震えていた。
 常々思う。この部室は人が過ごす場所として適していない。そもそもなんだ、あの窓に貼ってある下手くそな絵は。
 小学生の落書きのような人物画。その下の余白に『俺』と書かれているのをメガネを掛け直しながら呆れながら見ていると、背後からやかましい音を立ててドアが開く音がする。
「おぉ寒ぃー! おいおいやばいぞタッチー。この体感度からいって、こことトイレの寒さほぼ同一!」
「……そう思うなら早くドアを閉めてくれ。風が入る」
 横目で見ながら声を返すと、小野寺は不満そうに口を尖らせる。まったく。絵だけでなく、行動まで子どもだな。
「なんだよタッチー、相変わらず反応薄いぞ!」
 そう言いながらも、さすがに慣れているのだろう。深く気にした様子もなく、手櫛でくせっ毛の髪を整えながら手前の空いた机に座る。髪を気にするくらいなら、そのだらしなく緩んだネクタイやらはみ出たシャツやらを直してもらいたいものだ。……まあ、言ったところでまた明日には元に戻るというのが、さんざん注意した末に得た答えだ。もう外見に関しては何も言う気はない。
 小野寺は机に顔をくっつけてぼやく。
「あー、やっぱさ、暖房のなんか欲しいよなぁ」
「俺としては、今すぐ帰宅することが最良だと思うが?」
「だーかーらー。今部活中だっての」
 顔をつけたまま視線だけが俺に向けられる。普段は無駄にオーバーリアクションなだけに、そんな動作は珍しい。さすがの小野寺も寒いと動きが鈍るんだろうか。
 確かにこの寒さだ、不本意ながら俺も礼儀に反して室内でコートを着込んでいる。できればさっさと帰りたい。
 いや、そうだな。帰るか。
「うぬぁ! だからどうして帰ろうとすんだよタッチー!」
 立ち上がろうとした途端に浴びせられる非難の声。なぜか最近、その速度が上がってきている気がする。行動を読まれているようで不気味だ。
「俺一人じゃキツイって何度も言ってるだろ!」
「そうそう何度も言われた記憶はない」
「い、言ったっての! それは忘れんなよ!」
 言われ、その必死な様子にしかたなく記憶を探ってみる。
 そう言われると……前に、暖房器具がないからとか何とか言っていた、か? ……ああそうだ、確かだいぶ昔に言われたな。
「つまり、俺は暖房器具扱いだと」
「って、今どういう解釈したんだよっ! そうじゃなくて、タッチーにはもっと重要な役目があるだろ!」
 重要な役目? 俺はここで本を読むか、予習復習に勤しむことしかしていないのに?
 思わず眉を寄せると、小野寺は座ったまま、まるで今のはなしと言いたげに大げさに両腕を振った。
「や、だから、話し相手な! 俺の! そう、俺の!」
「別にそんなもの……」
 いらないだろ、と言いかけて、ふと思う。
 小野寺は意外に初志貫徹なところがある。それは、まあ、それなりにあるアイツの美点であり、だからこそ『部活は時間いっぱいまで活動する』と最初に宣言したことを、今も律儀に守っている。
 だからきっと、このまま俺が帰っても、小野寺はこの寒い部室に残るのだろう。
 寒い部屋。机二つとロッカーがあるだけの閑散とした部屋。そんな中、夕日を浴びて震えながら一人でポツンと座っている小野寺の姿が脳裏に浮かぶ。
 ……なんというか、…………やはり、もう少しだけいよう。
 そんなことを考えたなどと気取られないようにため息をついて、浮いた腰をイスに下ろす。そのとたん嬉しそうな顔になる小野寺。こういった現金なところはウチの飼い猫にそっくりだと思う。
 ――もしや、時々ネコ缶をやりに家に来るせいで行動が似てしまったのか?
 なんとなく思いついた軽い冗談。けれど次の瞬間、笑いどころではない寒気を背中に感じた。
 まてよ。まさか小野寺、だからお前は時々、俺に隠れてこっそりとセレスティーヌに頭を下げているのか? よりによってお前の地位の方が下なのか。
「……まさか、な」
 思わず緩みそうになる口から、ため息混じりの声が漏れる。
 いくらなんでも、そこまで小野寺も人間の感性を手放してはいないだろう。ダメだな。いくら小野寺が相手とはいえ、悪いことを考えた。
「あ! 思いついたぞ、タッチー!」
 俺の微かなつぶやきは聞こえなかった様子で、小野寺が目を輝かせて顔を上げる。
「この部室ビニールで包めばいいんじゃん!」
 前言撤回。
 かろうじて人間だが、やはり馬鹿だ。
「ほら、ビニールハウスとかあるだろ? それの応用をすれば、もうなんていうか常に温室? うわ、俺頭良くない? よし、そうとなったら近所のスーパーで五円チョコ買いまくって、一個ずつビニール袋に入れてビニール大量ゲット」
「するな」
 早口言葉さながらに出てくる思考中枢破壊言語を遮る。
「お前はどうしてそう、人類から離れようとするんだ」
「いやいやいや! 俺はがっつり人類だぞ!」
「そうか。なら、スーパーの人に迷惑をかけるな」
 ついたため息もひどく冷たい。
 やはり帰ろうか。そもそも、この部は一体いつになったら何の活動をするんだ。
 白い息すら見えそうな寒さの中、ふてくされたように机にうつ伏せになる小野寺を無視して窓に視線を向ける。
 吹く風に飛ぶ枯葉。窓から見える小さな裏庭は、すっかり冬の光景に移り変わっていた。あるのはただ茶色の樹木と散る枯葉、そして窓の端に映る一点の赤。
 ……赤?
 すでに紅葉の時期は終わっている。つい身を乗り出して目を凝らせば、そこにあったのは外の窓枠に置かれた一粒の苺。
「ん? どしたよタッチー?」
 よほど凝視していたのか、背後から小野寺の声がする。
「いや、前に見た時はあんなもの……、む?」
 風に押されたのか、苺がコツリと音を立て窓にぶつかる。
 それはいい。それはいい、んだが……。

 コツ、コツ、コツ、コツコツ、コツコツコツコツコツ!

 ……音が止まらないのは、どういうことだ?
「うっわ、まさか――」
 ボソリと何事かつぶやく小野寺。止まらない音。揺れる赤。
 結局、俺は何度も窓にぶつかる苺の姿に居たたまれなくなって席を立ち、まずは窓を慎重に軽く叩く。
 すると苺の動きが止まった。そのまま緑のヘタが大きく仰け反り、赤い実が鮮やかに視線に映りそのつぶつぶとした種の一部がパチパチと瞬きをして、

 目が合った。

 ……目が合った?
 いや、正確に言うと種だな。そうだ種だ。ああ種だな。第一、苺に目なんてあるわけが

「……寒、い……」

 今にも消えそうな儚い声。それはくぐもっていて、まるで何かに反射して、そう、例えるなら窓越しに会話をしているような――
 迷うことなく窓をスライドさせて苺を救出する。
「うおぉお寒ぃい! ははは早く閉めろタッチー!」
 吹き込んでくる突風の中、小野寺が何かを喚いている。  まあ、そんなことはどうでもいい。問題は手の中の小刻みに震えている苺だ。いや、苺と確定するのは時期尚早だな。もしかすると限りなく苺に似た別の生命体かもしれない。
 刺激しないように、なるべくそっと声をかける。
「大丈夫ですか? 体に異常は?」
「……あ、は、はい。ありがとう、ございます……」
 苺に良く似たその存在は、寒さから来る震えとは違う心細そうな動きでフルフルと横に揺れる。
「……あ、あの、手を、離していただけますか? そんなに触られると、その、恥ずかしくて……」
「あ、ああ、失礼!」
 あせって手を離せば、ゆっくりと机の上に降り立つ苺……のような存在。よく見れば、シャーペンの芯のような手足も生えている。
「とにかく、何か体を温める物を」
「いやタッチー、あっためたら腐ると思うぞ」
 とんでもない事を口走る小野寺。慌てて移動し顔を近づけて小声でたしなめる。
「何てことを言うんだ! 女性に対して腐るなんて、少しは配慮というものを考えろ」
「や、その、相手苺だぞ? もう生物ですらないし。生は生でもナマはさすがに意味が違うっつーか読みが違うし」
「いいか小野寺。よく聞け。世の中には愛し慈しみ永い時を経て大事にしてきた道具が生命を持つという話がある。ただのネコが猫又になるように、あの苺にもそういう事情がある可能性を考えてみろ」
 命を得た故に主を失ってもなお生き続ける存在。その生涯を想像し、目の奥が熱くなるのを堪えながら訴える。
 対し、小野寺は机に顎をのせたまま半眼になって言った。
「それならやっぱり腐ってうぉ!」
 避けられた手刀は小野寺の顔があった机を振動させた。
 ほう、さすがにこの程度は避けるようになったか。強くなったな。
 やや青ざめてイスにしがみつく小野寺。その姿とめずらしく反論がないことに何となく罪悪感を感じて咳払いをした後、何事もなかったように話を続ける。
「生きている者を否定するな。それにあんなに震えて可哀そ……いや、ではなくて。そうだな、お前の言っていた伝説的な何かがあるかもしれないじゃないか」
「お、おお! それは覚えてたんだな! 凄いぞタッチー、いい感じに進歩だ」
 小野寺の瞳に輝きが戻る。……さりげなく、失礼なことも言われたような気がするが。
「でもな、俺が目指す伝説ってのはなんつーか、俺がこの世界で伝説に残るための必要事項みたいなもんで、虫とか苺とか、そーいうしょぼいもんじゃなくてだな、異世界からの侵略者とか凄い力とか凄い遺跡とか」
「……ここは、そんなくだらない部なのか」
 あまりに馬鹿らしい内容に口を挟めば、小野寺がムッとした顔で右手を振り上げる。
「くだらないとはなんだ! 男のロマンだろ!」
「内容も破滅的だが、そのための手段が待っているだけというのも絶望的だ。いや、でもそうだな、お前の発想だけは、ある意味伝説的だったかもしれないな。……強く生きろ」
「終わらせんなよ! でもほら、この部作ってから変なのがいっぱい来るようになったぞ! それがそのうち伝説に」
「いつ来たんだそんなもの」
 間髪入れずに挟んだ指摘に、小野寺はぐっと息をのむ。
「くっ、それは……! それは、その答えはお前にとっても命取りだぞタッチー! 泣くぞ!」
「小学生かお前は」
「いや、泣くのは俺じゃなくて――」

  「あ、あのっ!」

 響く第三者の声。
 振り向けば、苺嬢が机の縁ギリギリの場所で両手を合わせて、小さな黒目を潤ませていた。
 しまった。口論している場合ではなかった。
 他に物がないので、巻いていたマフラーをはずして緩く彼女に巻きつけてみる。多少は暖かいだろう。
「申し訳ありません。何か?」
 苺嬢、……そうだな、苺だからベリーヌとしておこう。ベリーヌは、マフラーの隙間から顔を出してペコリと礼儀正しく頭を下げると、意外と早口で話し始める。
「あの、本当にありがとうございます。この星の方はお優しいのですね。それで重ねがさねの失礼は承知でおたずねしたいのですけど、その、マロティス、という男性をご存知ではありませんか?」
「マロティス?」
 突然の質問に首をひねる俺の横で、再び机にうつ伏せになった小野寺がどうでもよさそうな口調で呟く。
「そいつも苺なんじゃねーの?」
「そんな軽いものじゃありません!」
 ベリーヌは高い声で否定する。
「私の愛しいあの方は、色黒で、強く逞しい硬い体をしていて、私なんかより滑らかな手触りなんです!」
 ……つまり、肌の手入れに気をつかっている、という事か?
 必死に彼女の言う人物像を思い描こうとしている間にも、うっとりとした声は続いていた。
「ああ、マロティス……。あのステキな三角形のフォルムを思い出すだけで、この胸のトキメキはジャムのように甘くやわらかくねっとりと心に絡みついて離れない。陛下の療養地をこの目で見てみたいと言って光と闇が幾廻り。あなたは今どこにいるの……」
 沈痛な面持ちで遠くを見つめるベリーヌ。愛する者を想うその気持ちは、痛いほどに俺の胸を強く打った。
「そう、なのですか。力をお貸ししたいのは山々なのですが、残念ながら俺達には心当たりが……」
 言いながら、確認の意味を込めて小野寺の方を見――
「……。ちょっと失礼」
 続けようとした言葉を切りベリーヌに断りを入れて、俺は完璧に目を逸らして青ざめる小野寺に詰め寄った。
 その顔に向けて、小声で一言。

「何か知っているな?」
「い、いや? なんのことやら」

 冷や汗をダラダラ流しながら目を合わせない小野寺。その声は、彼女への配慮という理由を抜きにしてもしなくても、力なく弱々しい。
「小野寺。お前は、嘘はつけても隠すことは出来ない人種だ。無意味な言い訳は諦めろ」
「う、いや、だから……。俺は別に……その……」
 せわしなく目だけを動かしていた小野寺は、やがて言いづらそうにつぶやいた。
「……ただ、落ちてたから食べただけだぞ。……栗を」

 栗。

 一瞬何の事だかわからなかった言葉が、像を結んだとたん戦慄へと変わる。あまりの事に指先が震えた。

 ――脳裏に浮かんだそれは、 『色黒』 で 『固い体』 で 『三角形』 だった。

「おまっ!」
「ま、待つんだタッチー。まだ決まったわけじゃないし」
 その囁きに、大声になりそうだった声を辛うじて抑える。
 平静を保つためにズレたメガネを指で押し上げ、青ざめたままの小野寺を見下ろした。
 出た声は、自分でも驚くほどに低い。
「なぜ食べた」
「お、落ちてたからです」
「なぜ、食べた?」
「……お腹すいてたからです」
「お前は、腹がへったら拾い食いをするのか」
「う、でもカラのついた栗だったし、食べ物は粗末にするなってタッチーも言ってた、だろ?」
 その言葉に思わず沈黙を返してしまう。……確かに、言ってしまった過去は存在する。覚えていたのは感心だ。
 だが、それ以前に根本的な間違いがありすぎてどこを指摘すればいいのか……。
 その数秒の間を縫って、背後から期待の混じったベリーヌの声が割り込んだ。
「あ、あの、もしかして何か知っていらっしゃるのですか?」
「いえ、それは……」
 振り返って、口ごもって。
 結局口をついて出たのは、遠まわしな確認の言葉だった。
「その、マロティスという方は、どのような……」
「マロティスですか? あの方との出会いは、暖かな日差しあふれた公園の中。うっかり転んで果汁が滲んでしまった私に、あの方は何も言わずにそっと防腐処理をしてくれたの」
「うわ、つっこみどころしかないし」
 お前にだけは言われたくないと思うぞ、小野寺。
「とても無口で、でも笑った時の大きく裂ける口がステキで、思い切ってお名前を聞いたんです。それ以来、ずっと……」
 ベリーヌは赤い顔をどす黒くさせて、キャッとうつむく。
「追いかけて追いかけて追いかけて追いかけて、振り向いてもらうために、命がけ、もといチョコがけなのですわ!」
 なんとも言えない沈黙が部室に広がった。
 コートの裾が引かれ、振り向けば未だに青い顔の小野寺がボソリとつぶやく。
「なあ、普通はチョコがけの方が逆だよな?」
 ……聞くべきはそこか?
 どう答えていいかわからず、咳払いをして話を進める。
「と、とにかく、まずは事実確認を急ぐべきだ。よく思い出せ、小野寺。お前の食べ……いや、とにかくソレはどこかが裂けていたか?」
「えー、大変言いにくいのですが、……裂けてた」
「……そうか。じゃあ無口、だったか?」
「いや、無口ってか、栗がしゃべるのを前提に食べ……ええと、ソレしちゃってないんだけど。あ、でも、動いてはいなかったぞ。……たぶん」
 コソコソと話し合っていると、待つのに耐えかねたのか、ベリーヌが甲高く独り言を叫び始める。
「ああマロティス! あなたはどこにいるの! あなたのためなら私、身を削ってジャムを作ることも、船を強奪して追いかけることも出来るのというのに! あなたに、この煮えたぎるチョコのような想いを、早く、伝えたいのに……!」
 マフラーに包まれてジタバタと暴れるベリーヌ。その姿を見つめて冷や汗を一つ流しながら、小野寺は言った。
「……むしろ俺がやったことって、良いことじゃね?」
 危うく、一瞬だけ同意しそうになってしまった。あわてて持ち直して小野寺を見やる。
「まだ何もわかってないのにそんな事を言うな。そもそも、一つを救って全てを奪うことの、どこが良いことなんだ」
 その言葉に、小野寺はやっと上体を起こして俺を睨みつけてくる。
「だって食い物は食べるためにあるんだぞ? それに、はっきり言ってあの苺ストーカ」
「それは言うな」
 限りなく危険な単語を遮って、邪魔になった前髪をかきあげる。気疲れからか、ついため息も漏れてしまった。
「……とは言っても、どうするべきか」
「そんなの帰ってもらえばいいじゃんか」
 小野寺は簡潔にそう言うと、ベリーヌに向かってはっきりと聞こえる音量で話しかけた。
「そのマロティンとかいう奴さ、ラブラブいちゃいちゃ新婚旅行してるって言ってたぞ。だから諦めて帰れ」
「なっ」
 目を剥く俺の横で、小野寺は平然と言葉を続ける。
「ちなみに俺らは居場所は知らないぞ。聞くだけムダだから、そこんとこよろしく。じゃ、そういうわけで自分の国に帰れ」
 伝説にもなりゃしない、とつぶやく小野寺。
「おい小野寺」
「いーんだよ、適当にごまかしとけば。真相もわかんないし」
 はぁ、といつになく疲れた様子で息を吐く小野寺は、次の瞬間、ぞっとした表情で目を見開いた。
 同時に俺の背中にも走る鳥肌。

「……マロティン? マロティン、ですって……?」

 振り向くまでもなく、得体の知れない恐怖を包んだ声が背後から響く。

「あの女、あの女に会ったのね! 私のマロティスを奪った、あのにっくき女に!」
「は? な、何言って」
「マロティスを、私に幸せをくださいって言ったら拒絶したあの女にぃ!」
「ってうおわぁあ!」

 ベリーヌは勢いよくマフラーを剥ぎ取ると、言葉半ばの小野寺に飛びかかる。視界から隼のように流れ去る赤。叫ぶ小野寺。バランスを崩し倒れるイス。舞い散る埃。
 クっ、だから、名前が違うと言おうとしたのに!
 大掃除の時期まで掃除を引き延ばすんじゃなかったと後悔しながら、条件反射でむせる喉元を押さえる。
 メガネにつく細かい埃越しに見える、暴れる小野寺とその顔に引っ付いた赤い姿。

「だあっ、止めろって! 離れっ、て、痛っ!」
「出しなさい。今すぐ出しなさい。あの女を出しなさいっ!」

 もはや乱闘だ。とにかく引き剥がそうと邪魔な机を避けて移動した、その時。
 ガラリ、と音がしてドアが開いた。
 瞬間、黒い物体が一陣の風のように走り、興奮状態のベリーヌを吹き飛ばす。床に叩きつけられるベリーヌ。対して、黒い物体は軽やかに地面に着地した。
「へ……?」
 茫然と仰向きのまま固まる小野寺に、黒い物体はベリーヌと似たような手足を動かして近づく。

「……すみません。迷惑、かけました」

 聞こえた声は、予想外にも澄んでいた。鈍く光を反射する黒い体。その形は逆三角形を模している。
 思わず無意識に口から声が零れていた。
「もしや、君がマロティス……?」
「はい」
 体ごとうなづくマロティス。頭上の緑のフサが動きに合わせて静かに揺れる。
「栗じゃないし……」
「はい」
 小野寺のつぶやきにも律儀にうなづき、マロティスは突如自分の体を転がったイスに叩き付ける。
 軽い音をたて、黒い欠片がマロティスの体からパラパラと落ちる。そこに現れた姿は、目に眩しいほどの赤色だった。
 そう、ベリーヌと同じ、苺の姿。
 あっけにとられたような小野寺の声が耳に入る。
「チョ、チョコがけ苺かよ……」
「はい。……少しおしゃれをしたら、このザマです」
 おしゃれなのか。
 展開についていけず、疑問も口も挟めない状態でいると、マロティスは再び移動してベリーヌへと近づく。
「……彼女は、私が連れて帰ります」
 気絶しているベリーヌの腕をつかみ、軽々と引きずりだすマロティス。その後姿に、俺はそっと声をかけた。
「いや、しかし、彼女は君にとって、その……」

「そう、私はあなたの運命の相手なのですわ!」

 声は突然。
 驚きに固まったマロティスに、気絶していたはずのベリーヌが凄まじい勢いで縋りついてしゃべりだす。
「ああ、会いたかったマロティス!」
「は、離……」
「あのマロティンとかいう馬鹿女のせいで離れ離れになっていたけれど、これで私達はずっと一緒よ!」
「マロティンは、私の妹だ。馬鹿にするな……!」
「もう、そんな嘘はつかなくていいのよ。そう言えってあの女にそそのかされたんでしょ? ああマロティス、あなたって素顔もステキ!」
「だから、離せっ……!」
 必死で引き剥がそうとしているのに磁石のように離れないベリーヌ。その理不尽な光景は、怒りを覚えるには充分なものだった。
「――少しは話というものを聞いたらどうだ」
 テーブルの真下で行われている諍いを見下ろし、俺はベリーヌが声に反応したのを確認してから相手を刺激しないようにそっと腰を下ろした。
「一方的な愛情は、時に相手に不快しか与えないこともある。少しは冷静に状況を見てみるんだな」
「な、何よっ! あなたに助けてもらったことは感謝しているけれど、彼とのことはあなたには関係ないでしょう!」
 ベリーヌの言葉に、マロティスは厳しい視線で彼女を睨みつけた。

「……何度、言えばわかる。私は女だ!」

 シン、と。
 一瞬部屋の空気が静まり返る。
 それを破壊したのは、やはりベリーヌの声だった。
「やあね、何を言ってるの? いくら恥ずかしいからって、そんなすぐにバレる嘘に騙されるわけないでしょ?」
「嘘なんかじゃないっ……!」
 再び言い争い始める二人。男女の判別はつかないが、マロティスの必死な言葉に嘘はないように感じた。ま、まあ、思わず一瞬思考が白く染まったが。
 無言でその光景を眺めていた小野寺が小さくつぶやく。
「愛って、怖ぇ……」
 ……奇遇だな。俺もそう思った。
 だが、これで少なくとも被害者はマロティスだと判明した。俺は再び説得に入るべく会話に口を挟む。
「もう一度言う。冷静になって、頭を冷やせ」
 ついでに指も挟んで二人の間に隙間を作らせてもらう。
「ちょ、何するの!」
「迷惑か? なら、その迷惑さを、自分が他人にも与えている自覚を持った方がいい。大丈夫だ、まだ間に合う」
 ベリーヌは憎しみのこもった目で俺を睨みつけると、裂け目そのもののような口を愉快そうに歪めた。
「馬鹿じゃないの? 私とマロティスはもう、相思相愛なんですから。迷惑なことなんて一つもないのよ、フフ」
 そう言うと、ベリーヌは口を限界まで開いた。闇色の口の中でキラリと何かがきらめく。
「それはっ……!」
「さあ、一緒に帰りましょうマロティス」
 あせった口調のマロティスにベリーヌは口を開いたまま言い放つ。
「この転送装置、高かったんだから。ね?」
 刹那、鼓膜を振るわせる無音が響き、二人の周囲の空間が蜃気楼のように歪む。
「なっ、何だこれはっ!」
 突然のSF現象に対処できないでいる間にも、二人の姿が歪みに同調していく。マズイ、このままではっ……!
「待て! そんなことをしても、生むのは悲劇だけだ!」
 言いながらベリーヌをつかもうとした指が、薄れゆく赤い体を通り抜ける。何度も、何度も。つかむことは、できない。
 ダメ、なのか――!
 己の不甲斐なさに歯を食いしばる。すると、マロティスがゆっくりと顔を上げた。
 その黒い瞳が、やわらかく細まる。

「……大丈夫。もう、逃げない。……がんばる」

 静かな声は優しく広がり、

「ありがとう、……優しい、人」

 ――余韻を残して、姿と一緒に消えていった。

「マ、マロティーーース!!!」

 伸ばした手は虚空をつかむ。もうそこには何もない。
 くそっ。何も、何も出来なかった。
 俺の、力が至らなかったばかりに、また、何もっ……!
 目が熱い。チリチリと目の奥を焦がすように熱い痛み。それはまるで罪に対する罰のごとく絶え間なく続き、やがて脳へと達する。断続的な痛み。熱さ。
 目の前がぼやける。陽炎のように景色が揺らぎ、痛みを包み込む闇へと変わる。手に落ちてくる液体。頭が痛む。これは血なんだろうか。考える間もなく狭まる景色。苦痛。頭のどこかで無機質な声がする。闇。ただその声だけが唯一の

『ワ ス レ ロ』――……




 ……――? なん、だ、この惨状は?
 なぜか、部室がいつもより荒れている。ただでさえ狭い部屋だというのに、机の一つが定位置から離れた場所へと移動し、イスに至っては地面に転がっていた。
 そして理由は不明だが、小野寺もイスの側で仰向けになって転がっている。
「……何をやってるんだ、お前は?」
「あー、うん。過激な愛による犠牲だ、ようは」
 困ったように眉を寄せて言葉を濁す小野寺。こいつは時々こうやって、普段は絶対にしない苦笑をすることがある。
 一体何なんだ。俺が何かしたか?
 考えたところで答えがわかることもない。一つため息をついて不思議と疲弊している体を起こし、俺はまず移動した机を元に戻す。
 その間に小野寺もゆっくりと体を起こし――
「うっ」
 小さく呻くと体を九の字に折り曲げた。
「小野寺?」
 不審に思いながらも近づけば、その顔は青ざめ、額にはびっしりと汗をかいている。
「おい、どうした? しっかりしろ!」
「タ、タッチー……」
 あわてて肩に手を置くと、小刻みな震えが伝わってくる。小野寺は顔を引きつらせながら途切れがちに言葉を紡ぐ。

「は、腹……壊し、た。……も、限界」

「……は?」
 思わず抜けた返事を返した拍子に、パキっ、と上履きの裏で何かが割れるような軽い音がした。
 見れば何かの黒い欠片。拾って顔に近づけると、甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「……チョコ? お前、まさかこれを食べたのか?」
「や、あ、うー、……そ、それで……いいや。……もう」
「お、お前ってやつは……。だから、拾い食いはするな、とあれほど言っただろう! 三秒ルールなんて言い訳はきかないからな!」
 瀕死で保健室と繰り返す小野寺を肩に担ぎ、俺は再び深いため息をついた。
 気づけばカーテンのない窓から、焼きつくような真っ赤な夕日が差し込んでくる。冬は時間が経つのが早いものだ。
 妙に切ない気持ちになりながら、俺はほんの少しだけその夕日を見つめて踵を返した。

 本日の部活、強制終了。
 明日以降の部活は、もう少しまともな活動をしてくれ。


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あとがき