大切なモノ、側にアリ


 彼が彼女に出会ったのは、偶然。
 仕事の能率が悪くいつもの巡回ルートから外れた場所を回っただけの、そんな気まぐれ。
 趣のある古い民家の奥にいた、彼女の存在。
 ただそれだけが、彼にとって何よりも甘い奇跡だった。


 彼女が彼の手を取ったのは、必然。
 闇の世界しか知らなかった彼女が他の目を盗み縁側に近づいたのは、ただの好奇心。
 そんな時に突如現れた、光そのものの彼の存在。
 ただそれだけで、彼女の心に甘い決意は焼きついた。


 ――そして、憲明 (のりあき) と杏里 (あんり) は互いのみを支えに旅に出る。




 どこまでも続く地平線。足をこする感触は、柔らかな土からゴツゴツとしたコンクリートへと変わっていた。なるべく道の両脇にそびえ立つ塀に沿って歩きながら、憲明は気遣わしげに横を歩く杏里を見る。
「……大丈夫ですか、杏里さん?」
「ええ、私は平気です。心配しないで」
 そう答えるマシュマロのような声には、隠し切れない疲労がにじんでいた。憲明はそこが日陰であることを確認してから立ち止まり、その白く柔らかな肩にそっと触れる。
「無理はいけません。あなたはあの家から出たことがなかったのだから。さあ、少し休憩しましょう」
「でも、ここはまだ広い場所なのでしょう? もしも有義さんのお仲間の方達に見つかってしまったら……」
 不安げにうつむく杏里に、憲明は意識して明るい笑い声をあげた。誰もいない道に、抜けるような青空に、その声は広がり、溶けていく。
「大丈夫。ここは巡回ルートには含まれていないから、誰も通りはしませんよ。もし通るとしても、それはきっと、僕のような過剰な働き者くらいじゃないかな?」
 嘘はついていない。他の巡礼ルートも全部把握しているし、本来自分がいるべき場所とは真逆の道を選んで進んでいるのだから。
 その代償として、自分達がどこに向かっているのかはわからない。
「がんばりすぎて、道に迷ってしまうくらい?」
 クスクスと笑う声。それは憲明にとって、鈴虫の旋律よりも美しく響いた。
 彼女も自分達に行く場所がないことはわかっている。杏里は家を、憲明は仕事を。お互いに大切なモノを捨てて、ここにいるのだから。
 その事実は、憲明に幸福と罪悪を同時に与える。何度も心に刻みつけては決意に変えていた二つの感情が、彼女の笑い声に呼応して大きく罪悪感へと傾いた。

「――本当に、良かったのですか?」

 問う声は、思いのほか低く。
「あなたは、あんなに愛着を持っていた家を捨てた。でもわかったでしょう? 僕と行くということは、こんなにも大変なことだと」
 温室育ちの彼女は弱く、触れる肩の柔らかさは強く掴めば壊れてしまいそうなほどに儚い。
 そして何より、彼女は物を見る能力を持たない。
 これは生まれつきのものだし、触覚があるのだから行動は憲明さんと変わらずに出来る。そう言われて納得はしても、不安は消すことが出来なかった。
 そんな彼の脳裏に、嬉しそうに木造のわが家を語る彼女の姿が再生されて、憲明は辛そうに言葉を続けた。
「あの家にいれば食べる物にも困らないし、僕は杏里さんが幸せなら……」
「幸せなら、いいんですか?」
 言葉を遮り、杏里が言う。憲明は驚いたように言葉を詰まらせた。彼女の声色はとても悲しげだった。
「……ええ。あなたの幸せが、僕の幸せですから」
 少しためらって、それでも憲明は頷いた。言葉とは裏腹に、浅黒く逞しい体が小さく萎縮して見える。
 そんな彼の顔に、杏里はそっと白い右手を添えた。
「――憲明さんこそ、私を選んで後悔していないのですか? あなたにとって、仕事は存在意義そのものだって言っていたから、だから……」
 彼の顔に触れる手が小刻みに震える。
「私……私は、あなたの足枷になっているのでは」
「そんなことはっ!」
 憲明は受けた衝撃を打ち消すように激しく首を振る。その反動で落ちた杏里の白い手の上に、自身の、彼女とは真逆の手を乗せる。
「それだけはあり得ません! 僕はただ、あなたの体が心配でっ」
「それに私は……憲明さんの子どもを生むことが出来ません。せっかく女として生まれたのに、あなたとの子どもが欲しくても、……こんな体だから」
 じょじょに小さくなる声は、最後には囁きとなって、さざ波のように憲明の体を通り過ぎる。
「私も、憲明さんと同じ体で生まれたかった……」
 震えながらうつむく彼女の心には、自分の真っ白な姿が見えているのだろうか。体も、頭も、全てが白のその姿。
 その純白の体ゆえ、太陽は彼女の体を焼き、闇の世界に生きることを強いられる。
 ――それでも、その綿菓子のような姿は、憲明にとってたった一つの奇跡そのもの。
 彼はそっとかがんで、杏里の顔をのぞきこんだ。
「杏里さん。僕は、あなたがあなたのまま生まれてきたことを感謝しているんですよ? 僕と同じ姿で生まれたのなら、きっと僕はあなたを見つけることもなく、こうして愛することも出来なかった」
 それは確信。
 思いを伝えるように白い頭に手を滑らせれば、彼女そのもののような柔らかく暖かい感触が返ってくる。
「僕が大切に想っているのは、今ここにいる杏里さんだけです。……信じて、いただけますか?」
「憲明さん……」
 杏里はゆっくりと顔を上げ、再びその存在を確かめるように憲明の顔に触れる。
「私、私ね、本当はとても不安だったんです」
「はい」
「本当はね、少し……嫉妬していたんです」
「え?」
 思わぬ単語に、憲明は驚いたように声をあげた。それに気づきながらも、杏里はうつむきがちになる顔を必死で上げて、言葉を続ける。
「だって、あなたはいつも仕事のお話をしてくれたでしょう。すごく、すごく楽しそうに。私はとても嬉しかったのだけど、その仕事は全部……一番偉い、あの女性に尽くすためのものだから」
 予想もしていなかった言葉に固まる憲明。杏里はついに耐え切れないように手を離してうつむいた。
「あ、あの、私みたいに代わりがたくさんいる存在が、そんな凄い方に嫉妬するなんて、おこがましいですよね。でも、どうしても、憲明さんは私より仕事――いえ、あの方を選ぶんじゃないかって、不安で、……怖くて」
 憲明はただ黙って杏里の言葉を聞いていた。
 彼女の言葉が紡がれるごとに、痺れのような甘い感情が体を満たす。喜びで高まる感情そのままに、憲明はややうわずった声を発した。
「そんなに嬉しいことを言わないでください。……どうしていいか、わからなくなりますから」
 声の変化に気づいたのか、きょとんと顔を上げる杏里に憲明は優しく語りかける。
「確かに、あの方は大事なお方です。僕の仕事はあの方のためにあると言っていい。……けれど、そこにある感情は忠誠であって、それ以外の何者でもないのですよ」
 この気持ちが彼女にも伝わればいい。そう思いながら彼は大切な言葉を想いを込めて告げた。

「――僕をこんなにも幸せな気持ちにしてくれるのは、あなただけです」
「あ……」

 その時、憲明は杏里の見えない瞳が瞠目するのを確かに見た気がした。
 ゆっくりと一歩、杏里が憲明に近づく。そして響くは美しい旋律の声。
「憲明さん」
「はい」
「あなたの問いの答えを、お返ししますね」
 そして彼女は、彼の顔に両手を触れさせた。ちかくで落ち葉が地面に降り立った音がかすかに聞こえる。

「――私の幸せは、あなたの側にいることです」

 憲明は両頬に感じる柔らかな感触に目を閉じた。そんな彼の耳を通し、杏里の声が全身に行き渡っていく。

「こうしてあなたといるだけで、私はどんどん幸せになっていくの。だから、お願いします。私に幸せをください。明日に繋がる幸せの隣りを、私は生きたいのです」

 それはまるで、甘露のように甘く。
 それでいて苺のような甘酸っぱい、幸せの発露。

「……はい、喜んで」

 憲明は目を開けて、しっかりとうなづいた。
 彼の目に映る彼女の背には、日陰にも負けない美しい羽がきらめいて見えた。
 気づけば彼女のすぐ後ろに一枚の茶色い落ち葉。チョコのようなその葉は少し冷たい風に乗り、やがて苺のように赤い葉に重なり、静止する。
 それはチョコをかけた苺を彷彿とさせる色。
 憲明の仕事の目的物とも言える色。大切な献上物の色。
 けれど彼がそれに近寄ることはない。もうそんな必要はないのだから。
 そう、仕事よりも大切な甘いモノは、すぐ側にある。
 そんな彼らの数十センチ横を、巨大な黒いドーナッツが二輪、高速回転をしながら通り過ぎる。巻き起こった突風が、色とりどりの落ち葉を吹き飛ばしていった。
 地平線の先に浮かぶ青リンゴの点滅を確認し、憲明は杏里に話かける。
「では、行きましょうか、杏里さん。あいつが赤リンゴになると危険ですし、この辺もそろそろ、意地の悪い太陽に見つかりそうですから」
「はい。どっちに行きますか?」
 白い触角を動かして周囲の触覚を探り、杏里はより日陰に近い場所を歩きながら声を返す。

 ――声をかければ、うなづいてくれる相手。

「そうですね。どこかの木造の家に行っても、きっと先客はいるでしょうし。……そうだ、どこかの森に行くのはどうですか? あそこなら、杏里さんの食べる木もたくさんあるだろうし、一緒にキノコを育てて暮らすのもいいと思いますよ」
「まあ、それは素敵ですね。たしか憲明さん達は、私達とキノコの作り方が違うのですよね?」
 アスファルトの溝にはまらないように杏里を気にかけながら、憲明も黒い触角を動かしてうなづく。
「ええ、お互いに教え合いましょう」
「はい。楽しみです」

 ――質問すれば、答えてくれる相手。

 それさえあれば、生きていける日々がある。
 彼らにとって、今はその事実さえあれば充分だった。


 そして、羽の生えた二匹の黒アリと白アリは、互いのみを支えに旅を再開する。
 新天地を目指して。


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あとがき